スティーヴィー・レイ・ヴォーンの『Texas Flood』セッション

1980年代初頭、ブルース人気は影をひそめ、レコードの売り上げも低迷しました。B.B.キング、ジョン・リー・フッカー、バディ・ガイといったすでに地位を確立していたアーティストでさえ、聴衆の減少を経験することになったのです。しかしその後、1983年の夏にスティーヴィー・レイ・ヴォーンが『Texas Flood』をリリースすると、ブルースとブルースロックは一気に復活を遂げました。この彼による快進撃が、他の多くのブルースマンのキャリア回復のきっかけにもなりました。数年後、バディ・ガイは次のようにコメントしています。「私は世界一スティーヴィーに感謝しています。なぜなら私のレコードは全く売れていなかったなか、彼は凄いセールスをたたき出しました。彼は私たち多くのミュージシャンに、新たな扉を開けてくれたのです」。

スティーヴィーは、ダブル・トラブルのベーシスト、トミー・シャーノンとドラマーのクリス・レイトン、そしてセッションのエンジニアも担当したリチャード・マレンと共同で『Texas Flood』をプロデュースしました。私は1996年にオースティンのArlyn Studiosで、マレンがエリック・ジョンソンのアルバム、『Venus Isle』のエンジニアと共同プロディースを行っている最中に話を聞くことができました。休憩中に、私たちは『Texas Flood』のセッションについて会話することができ、マレンは次のように語りました。「スティーヴィーのレコード全体の98%は、生演奏をそのままレコーディングしたものです。彼はどちらかといえば、スタジオでは恐れ知らずでした。テクニカルなことはあまり考えていないという意味で、彼は本物のパフォーマーでした。ステージでプレイするときも、自身の音楽の世界に没入します。ライブ・パフォーマンスを観てもそれが分かりますが、スタジオでも彼は変わりませんでした。気分が乗ってくると、1万人の聴衆の前でプレイするときと同じように、スタジオでもダンスのステップを踏みながらプレイしていました。録り直しもほとんどありませんでしたね。あるとすれば、若干のボーカルと、リードに重ねられているリズム・パートを所々録り直したぐらいです。基本的にギター・パートは、スタジオでの生演奏がそのままレコードに収録されています。そして彼らはほとんどの場合、スティーヴィーのパフォーマンスの出来で判断をしました。バンドのほかの誰かが大きなミスをしたとしても、スティーヴィーのプレイが素晴らしければ私たちは、『まあいいさ、これでいこう』とそのテイクをそのまま採用したのです」。

「私がスティーヴィーと初めて制作した『Texas Flood』は、レコーディングに2時間しかかかりませんでした。私たちがあのアルバムにかけた時間はたったそれだけです。基本的には彼が自身のライブ用のセットを2回続けてプレイしただけなのです。私たちはスタジオ入りしてセッティングを済ませ、私が『ライブと同じ感じでやろう』と言いました。それから12曲ほど弾いて、30分休憩を取り、全セットをもう一度プレイしました。各曲良いほうのテイクを採用し、それが最初のアルバムになったのです。」(リチャード・マレン)

セッションは、ロサンゼルスにあるジャクソン・ブラウンのリハーサルスタジオで行われました。ふたりは、1982年8月に開催されたモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演した際に出逢い、そして営業後のカジノバーで、スティーヴィーとダブル・トラブルのセッションに参加したことは、ブラウンにとって運命的な出来事になりました。ブラウンは『Texas Flood』のライナーノーツで、次のようなコメントを残しています。「スティーヴィーのプレイは、あの狭くて煙草の煙が充満したカジノの屋根を吹き飛ばさんばかりの衝撃的なものでした。本当に素晴らしかったです。私のバンドメンバーと彼らで少しジャムセッションをしました。その晩彼らがプレイするのを聴いて、L.A.に来ることがあれば、自分の所有する倉庫に場所を用意しているので、そこでレコーディングができることを伝えました。倉庫に沢山ホームスタジオの機材を揃えているだけで、スタジオと呼べるような場所ではありませんでしたが、ある意味パーフェクトな環境と言えました。街外れで人の出入りもほとんどなく、エレベーター前には警備員もいましたので、許可なく建物に立ち入ることはできなかったので」。

その年の感謝祭の日、スティーヴィー、ダブル・トラブル、そしてマレンはバンに荷物を積み込み、オースティンからロサンゼルスに向かいセッションの準備を始めました。 1984年、ダン・フォルテによる『Guitar Player』でのインタビューで、スティーヴィーはこう回想しています。「ファーストアルバムのレコーディングでは、ステージとほぼ同じようなセッティングでしたが、自分たちの間にいくつか隔壁は設置しましたね。ヘッドフォンも片耳だけ付けるようにしました。自分たちからは部屋の反対側にあるコントロールルームは見えず、その部屋と私たちの間には色んなものがあり、窓もありませんでした。このような環境をとても気に入っていました」。

マレンはギターアンプをどのように取り扱っていたか、次のように語っています。「スティーヴィーにはプレイに集中してもらい、アンプのセットアップは私が行います。エリック・ジョンソンのように、アンプを入念にチェックしたり調整したりすることはありませんでした。私たちはどちらかと言うと、『このアンプが使えるか使えないかだな』くらいにしか考えなかったですね。あまりテクニカル面でのこだわりはありませんでした。57(Shure SM-57)をセットして、ボリュームを10にしたら終わりです。スティーヴィーは普段3、4台のアンプを同時に使用していました。彼は当時、4、5種類のDumble Steel-String Singerと6、7台のFender Vibroverbを所有していて、どのアルバムも、彼のサウンドはFenderとDumbleのアンプの組み合わせから生まれたものであり、そのどちらかだけというケースはありませんでしたね。私たちは毎回スティーヴィーのために、中心から少しだけずれたコーンの2、3インチ以内の位置で、できるだけ近づけてマイキングしました。ルームマイクを何台も設置することは全くせず、通常は欲しいルーム・サウンドを得るために、あとからエフェクトを追加していましたよ」。スティーヴィーは『Texas Flood』のセッションの大部分で、ジャクソン・ブラウンが所有するハワード・ダンブルが組み立てたDumbleland 300 SLアンプを使用していたと伝えられています。

フォルテによるインタビューの中で、スティーヴィーは自身のDumbleアンプについて次のように詳しく述べています。「現在は150WのHoward Dumbleを使用しています。彼はSteel String Singerと呼んでいますが、私はKing Tone Consoulと呼んでいます。スペルは‘s-o-u-l(魂)’のほうです。まるでFenderチューブアンプの化け物みたいですよ」。この頃のスティーヴィーは、ギターとアンプの間に初代のIbanez Tube Screamerをディストーションとして、そして1960年代のヴィンテージもののVox wah-wah、Dallas Arbiter Fuzz Face、Tycobrahe Octavia3台をセットアップするのがお決まりでした」。

美しいインストゥルメンタル、“Lenny”は彼の妻に捧げられた曲で、彼はこの曲で“レニー”と命名したブラウンのメイプルネックFender Stratocasterを使用しました。このギターは彼の妻、レニーから贈られてものであり、1963年製であるとも、64年製であるとも言われています。ですが『Texas Flood』のほとんどの曲で、彼は自身のトレードマークであるギター、“Number One”でプレイをしています。いくつかのインタビューで、スティーヴィーはこの使い込まれたアルダーボディのFender Stratocasterを“59(年製)”とよく呼んでいましたが、実際にはその数年後に製造されたものでした。『Stevie Ray Vaughan and Double Trouble』ボックス・セットのライナーノーツで、スティーヴィーのギター・テックを務めていたレネ・マルチネズは次のように説明しています。「スティーヴィーは“Number One”のことをいつも59年製だと言っていました。しかし私がボディを開いてみたところ、ネックには‘1962’というスタンプが施されており、ボディ・キャビティにも‘1962’と書かれていました。そのため、なぜスティーヴィーはこのギターを“59”と呼んでいたのか不思議に思いましたが、のちに彼は私に、ピックアップの裏側に‘1959’と手書きがあったのを見て以来、59年製と言うようになったと教えてくれました。そして指板はベニヤ板(下面はカーブしている)でしたが、スティーヴィーが所有する他のローズウッド指板のギターは、すべてスラブボード(底面が平ら)でしたね」。

5ウェイ・トグルスイッチと左利き用のトレモロ・バーを除き、スティーヴィーは“Number One”をノーマル状態にしていました。レネはFender D-styleの“Number One”のネックが、彼がこれまでに見たStratのなかでも最大のものだったことを覚えています。スティーヴィーは、使用していた重いギター弦にも耐えうるGibsonのジャンボフレットを使用していました。「私は自分の指の形状に応じて、.013、.015または.016、.019のプレーン弦、そして.028、.038、.060または.056を使用します。G弦で.018まで下げると、輪ゴムのように感じてしまいます」。ジミ・ヘンドリックスと同じように、彼は主に半音下げチューニングを採用していました。スティーヴィーはあるときこう説明していました。「私は太い弦を張り、ダウンチューニングで力強く、そして叩きつけるように弾くようにしています。叩きつけるように、というのはテクニック的な話ですが」。

CDのライナーノーツでトミー・シャーノンは、『Texas Flood』のセッションはリラックスした雰囲気の中でのびのびと行われたと語っています。「スティーヴィーとプレイできて素晴らしかったことのひとつは、彼が私たちに『うーん、そこはそうじゃない。こんな風にプレイして。ここはこんな風な展開で、、、』といった注文を付けなかったことです。私たちは自分たちが感じるままにプレイできたのです。たったそれだけのことです。そしてスティーヴィーが聴いていて何か気に入ったら、彼も腰を掛けて一緒にプレイするというスタイルです。彼は他の誰よりも深い部分まで聴き取ることができ、そしてそれがまるで水のようにあふれ出てきたのだと思います。スタジオ入りする前からやりたい曲は決まっていましたが、皆で集まって曲のリストを作ったりはしませんでした。それが生で演奏したサウンドをアルバムに収めるために、私たちが本当に望んでいたことだったのです」。

スティーヴィー自身が『Texas Flood』のほとんどの曲、“Love Struck Baby”、“Pride and Joy”、“Rude Mood”、“Lenny”、“I’m Crying”を書き、“Dirty Pool”はドイル・ブラムホールとの共作です。また彼は“Testify”(作者不明)、バディ・ガイの“Mary Had a Little Lamb”、そしてハウリン・ウルフの“Tell Me”もカバーしました。しかし、すべてのカバー曲の中でも最も興味深いのは間違いなくタイトル曲の“Texas Flood”でしょう。テキサス・ブルースのシンガー、ラリー・ディヴィスが書いたこの原曲は、フェントン・ロビンソンがエレキギターを弾き、1958年にレコーディングされました。Dukeからリリースされた同原曲は、アレンジメント、そして特にボーカルの両面において、スティーヴィーのバージョンと驚くほど似ています。

ロサンゼルスでのセッションが終わったあと、スティーヴィーとクルーはオースティンに戻りました。彼らはボーカルにいくつかのオーバーダブを加え、テープの販売を開始しました。このテープは最終的に、ビリー・ホリデイ、チャーリー・クリスチャン、ボブ・ディランを始めとする音楽界の巨人の多くと契約を交わし、レコーディング音楽史上最も輝かしいレコードの数々を世に送り出したコロムビア・レコードのプロデューサー、ジョン・ハモンドの目に留まりました。ブルースマンであったハモンドの父、ジョン・ハモンドが、そのテープをエピックレコードのA&R担当、グレッグ・ゲラーに送ったのです。

『Texas Flood』のライナーノーツで、ゲラーは次のように当時を振り返っています。「何年にも渡り、ジョンはどんなアーティストとどのようなことが進行中か、すべて共有してくれていました。最後のひとりがスティーヴィー・レイでしたが、それはごく当たり前のことで、まったく難しく考える必要はありませんでした。彼のギター・プレイは紛れもなく素晴らしいものでしたが、私が一番魅力を感じたのは、本当に自然で信頼のできる彼の歌であり、黒人の真似事ではありませんでした。またそれは、無理して本物のように聞こえようとする不自然なものでもなかったのです。私の決断には、当時の音楽業界で起きていたことも影響しましたね。エレクトリック・ブルースという発想はとても時代遅れでしたが、彼のやっていることは受け入れられると感じました。昔のギター・ヒーローは活動を辞めていたり、ポップスに転向したりしており、新たなギター・ヒーローが必要だったのです。私は83年の春にスティーヴィーと契約しました。ジョンはスティーヴィーらのために57 番街のMedia Soundを予約し、私たちは座ってオリジナルのテープを聴きながら、何かする必要があるかどうかを判断しましたが、結局できる限り何もしない方向で話がまとまりました。ほんのわずかのオーバーダブと少しのリミックスが行われたかもしれませんが、アルバムは6月にリリースされました」。のちにスティーヴィーは、ミックスダウンとリマスタリングのためにハモンドがそこにいたことを回想しています。

アルバムのリリースとともに、スティーヴィー・レイ・ヴォーンとダブル・トラブルは北米とヨーロッパでのツアーを開始しました。1983年10月20日には、フィラデルフィアのRipley’s Music Hallでライブを行いました。このときライブに集まったのはわずか150人ほどでしたが、スティーヴィーとバンドは全力で『Texas Flood』のホットな収録曲を披露したほか、ジミ・ヘンドリックスの“Voodoo Child (Slight Return)”、そしてアンコールでもヘンドリックスの“Little Wing/Third Stone From the Sun”のメドレーを披露しました。このライブはフィラデルフィアのFMラジオ局、WMMRによって生放送され、その後全国放送のKing Biscuit Flower Hourでも再放送されました。このライブ演奏は、『Texas Flood』のリイシュー版であるLegacy Editionにも追加されることになります。

彼を知る人たちにとって、人の心を惹きつける彼の魅力のひとつは、彼がインスピレーションを得た相手に対する感謝を、習慣的に必ず伝えていたことです。そんな彼の人柄により、彼によって再び音楽業界で脚光を浴びるようになったミュージシャンの多くが、彼に感謝の意を表しています。1990年8月にスティーヴィーが死去した後、ジョン・リー・フッカーは次のように述べています。「私にとってスティーヴィーは、史上最高のブルース・シンガーのひとりです。彼が今もここにいてくれたらと残念でなりません。しかし彼の音楽は決して消え去ることはありません。彼はこれまでギターを手にした者のなかでも、最も偉大なブルース・ミュージシャンのひとりです」。

Photo: Larry Marano, Getty Images/Hulton Archive

長年『Guitar Player』のエディターを務めたジャス・オブレヒトは、『Rollin’ and Tumblin’: The Postwar Blues Guitarists, Early Blues: The First Stars of Blues Guitar, Talking Guitar』、『Stone Free: Jimi Hendrix in London』を始めとする、ブルース及びロック・ギタリストについての著書を数多く執筆しています。



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