ロニー・ジョンソン — 史上最も影響力を持ったブルース・ギタリスト

 

ブルージーなギターソロを正確に、繊細に、そして感情豊かにプレイするスタイルは、およそ1世紀前にロニー・ジョンソンが確立したとされており、その奏法は現代にも脈々と引き継がれています。今ではその名前は誰もが知るところですが、彼は「狂騒の20年代」において最も先進的なギタリストでした。ブルースとジャズに非常に精通していた彼は、ロバート・ジョンソン、T-ボーン・ウォーカー、チャーリー・クリスチャン、B.B.キング、チャック・ベリー、バディ・ガイを始めとする数多くのギタリストを魅了し多大な影響を与え、その名を歴史に残しました。多くの点において、ロニー・ジョンソンは現代のブルース・ギター奏法の創始者であったと言っても過言ではありません。


ロニー・ジョンソンとルイ・アームストロング、サラ・マーティンといった当時人気の高かったOKeh recordingsの1926年のアーティスト広告

ジョン・リー・フッカーはロニー・ジョンソンについて次のように語っています。「私は彼の大ファンです。彼は真のブルースマン、そしてポップ・アーティストであり、彼のプレイにはありとあらゆる要素が詰まっています。彼のことを語りつくすことはできません。天才ですからね。彼は独自のスタイルを確立していましたし、そのプレイは、それまでに存在したギタリストとまるで違っていました。誰も彼を真似することはできないでしょう。聴くだけですぐに彼のプレイだと分かります。彼は幅広い音を奏でることができましたが、彼のみが成しえるスタイルが存在し、すぐにロニーによる演奏であることが分かります。黒人か白人かにかかわらず、彼は皆から愛されていました。」


B.B.キングもまた、次のようにロニーを称賛しています。「自分もあんな風にプレイできたらと思えるギタリストはほんの一握りしかいません。T-ボーン・ウォーカーとロニー・ジョンソンはそのうちのひとりです。私はロニーに夢中でしたが、ブラインド・レモン・ジェファーソンに比べると、ロニーの凄さを分かるまでに少し時間を要しました。彼は素晴らしいブルースマンですが、ブラインド・レモンとは少し方向性が違っていました。ブラインド・レモンには荒々しさがありましたが、対するレニーには柔らかさが感じられ、プレイもより洗練されたものでした。彼の歌声は軽やかで甘く、言うなればロマンティックさが備わっていました。彼の歌声と抒情的なギターサウンドにはドリーミーな要素が詰まっていましたね。ブラインド・レモンとは対照的に、ロニーが歌で取り上げるテーマは多岐に渡っていて、それが彼を敬愛する理由です。恐らく彼はそれまでのブルースの在り方を窮屈に感じるところがあり、新たなことに挑戦したかったのだと思います。」


その挑戦は見事に成功しました!レコーディング・アーティストとして活躍した最初の10年で、彼はエディ・ラングと卓越したジャズ・ギターのデュオを、ルイ・アームストロング、デューク・エリントンとはクラシックジャズを、ヴィクトリア・スピヴィーとクララ・スミスとは軽快で俗っぽい大衆受けするデュオを、そしてテキサス・アレグザンダーとはフィールドハラー・ブルースをレコーディングし、彼自身のソロ名義でも数多くのブルース、バラード、ポップのレコーディングを残しました。彼は優れたシンガーであると同時に、多作なソングライターでもあり、ブルース史上最も長いキャリアを築いたミュージシャンのひとりとなったのです。


ジョンソンはなぜ他とは一線を画すミュージシャンとして、これほど語り継がれているのか考えてみましょう。まず彼は、6弦と12弦どちらのギターも巧みに操り、非常に想像力にも富んでいました。彼は自分の楽器をカントリー・ブルースの“スターベーション・ボックス”のように打ち鳴らしたり、ピアノのようにコンピング&フィルすることもできました。彼はクリスピーなリズムで、数えきれないほどのコードを次から次へと披露しましたし、彼がソロをプレイするときに見せる完璧なアーティキュレーションと最上級のチョーキングは、教則本の例のように正確でした。また見事な右手によるフラットピッキングのテクニックと、彼ならではのユニークな左手によるビブラートで、彼はマンドリンやボトルネック・ギターのような音を出すこともできました。彼が最高の状態で奏でる長く美しいソロは、彼の手が心と魂に直結しているような感覚を覚えます。当時も今日も、これほど即座に誰がプレイしているか認識できるスタイルを確立したギタリストはほとんどいません。


アロンゾ・“ロニー”・ジョンソンは、ニューオーリンズのストーリーヴィルエリアの出身です。1894年2月8日に音楽一家に生まれ育った彼は、バイオリン、マンドリン、バンジョー、ストリング・ベース、ピアノ等の楽器を習得していきました。14歳の頃には家族によるストリング・バンドに加わり、人前で演奏するようになりました。彼は街中を旅したことで、顔を黒塗りするブラックフェイス・ミンストレル、ラグタイム・ピアノ、ブラスバンド、交響楽団、オペラ、ブードゥー教の詠唱、ストリート・クライ、特に最も初期のジャズやブルースなど、様々なスタイルの音楽に触れることができました。伝説的なジャズ・ベーシストのポップス・フォスターは、次のように回想しています。「ロニーは彼の父親と兄と共に、ニューオーリンズ内のあちこちのストリートで演奏をしていました。ロニーがギターを弾き、父親と兄がバイオリンを弾いていましたね。当時ニューオーリンズ界隈でジャズ・ギターが弾けるのはロニーぐらいしかいませんでした。彼のギターは本当に素晴らしかったです。彼らは本当に数多くのパフォーマンスをこなしました。ロニーの類まれなるプレイに追いつくのには苦労しましたよ」。ロニーは約5年間、フレンチ・クオーターのイロコイ劇場と、フランク・ピネリの経営するブルース音楽をメインとするクラブで演奏しています。


ロニー・ジョンソン – “Playing With the Strings”(1928年)


ロニーは第一次世界大戦中に、巡業でイギリスまで足を延ばしたとされています。1920年には完全にニューオーリンズを離れ、兄のジェームズと共に一緒にセントルイスに移り住みます。しばらくの間彼は、ミシシッピの蒸気船上でジャズ・バンドのメンバーとしてバイオリンを演奏し、船上でバンド演奏していないときには製鉄所で働いていました。その後チャンスを掴むために、1925年にブッカー・T.・ワシントン・シアターで開催されたブルース・タレント・コンテストに参加します。ジョンソンはバイオリンを歌いながら弾き、毎週優勝し続け、ついには大賞を獲得し、オーケー・レコードの契約を勝ち取りました。1925年11月には彼自身の名義で初めてリリースされたレコード『78』を制作します。 “Mr. Johnson’s Blues” には、画期的なギター演奏と、彼の代表的なスタイルとなったスムーズでクリアなボーカルが収められています。『78』の裏面に収録された “Falling Rain Blues” では、フィドルを演奏しながら歌っています。


その後リリースされたレコードでは、孤独や不安、愛と忠誠心の脆さについて謳う歌詞が多く見られました。また彼の曲中には、ギャンブルややっかいなトコジラミ、様々な自然災害などの像が、幻滅する自身の気持ちのメタファーとして頻繁に登場するようになります。


“愛は賭けをするようなものだ、
とてつもなく低い確率から当たりを引き当てるのは至難の業、
198にベットしても結局当たり数字は199なんてことはざらさ”


ロニー・ジョンソン - “Blues in G”(1928年)


ロニーはボーカル作品とともに、最高のブルース・インストゥルメンタル・パフォーマンスをいくつもレコードに残しています。1928年にレコーディングされた“Playing with the Strings”、“Away Down in the Alley Blues”、“Blues in G”、“Stompin’ ’Em Along Slow”はその代表曲と言えます。彼が黒人であったことから、マミー・スミス、J.M.ゲイツ牧師、ルイ・アームストロングを始めとする数多くの黒人アーティストと同じように、彼の初期の作品『78』はオーケーの8000 “race(アフリカン・アメリカンを意味する)”シリーズの1作品として発表されました。彼は常に洗練された着こなしをし、博識もあり、レコード会社の幹部や他のミュージシャンらと良好な関係を築いていました。それでもなお『78』の宣伝広告が露骨に人種差別的であったことを彼がどのように感じていたのか知る由もありません。


ルネ・グルーネヴァルトがクラフトしたとされる12弦のギターを携えたロニー・ジョンソン(1928年)

マルチインストゥルメンタリストとして超人的なスキルを持つ彼は、たちまち引く手あまたなスタジオ・ギタリストになります。彼はルエラ・ミラー、ヘレン・ヒュームズ、ベルサ・“チャッピー”・ヒル、アイリーン・スクラッグス、アルジャー・“テキサス”・アレグザンダーを始めとする数多くのシンガーのバックで演奏をし、ジャズ界では、ルイ・アームストロング&ヒズ・ホット・ファイブとのパフォーマンスが高く評価されました。1928年にリリースされた“I’m Not Rough”での並外れたトレモロと極上なチョーキング、そして“Hotter Than Hot”でのアームストロングとの爽快なコール・アンド・レスポンスは、これらレコーディングを“クラシックジャズ”の地位へと引き上げるきっかけとなりました。その後、ほどなくしてロニーは、デューク・エリントンの“The Mooche”、“Move Over”、“Hot and Bothered”で、新たに入手した12弦ギターで演奏し、共演した偉大なホーン・マンであるバッバー・ミレイ、ジョニー・ホッジス、バーニー・ビガードと全く引けを取らないパフォーマンスを見せました。


1928年11月、ロニーとエディ・ラングは、ジャズ・ギター、そしてその後のジャズ・ギター形成期に多大な影響を与えることになったギターデュオ・シリーズの最初の1曲をレコーディングしました。当時他のどのジャズ・ギタリストよりもハーモニーに造詣が深く、やり手のスタジオ・ギタリストであったラングと、ブルースにおいては最高のテクニックを持つロニーがタッグを組むというアイデアは、オーケー・レコードのアーティスト・マネージャーを務めていたT.J. ロックウェルによるものでした。特に“Two Tone Stomp”、“Have to Change Keys to Play These Blues”、“A Handful of Riffs”で彼らが見せた相乗効果による見事な掛け合いは、今聴いても、彼らがこれら楽曲をレコーディングした当時と変わらぬフレッシュさがあります。彼らが最初に『78』をアメリカ国内でリリースしたとき、当時26歳だったラングが白人であるという事実を隠すために、彼の名はブラインド・ウィリー・ダンとクレジットに記載されていました。数十年後、ロニーはラングについて次のように述べています。「これまでに仕事をした人の中でも最高のやつです。我々はたった2本のギターでレコードを何枚もリリースしました。私にとってこれらレコードは最も大切な財産です。エディは本当に気の良いやつで、我々が言い争うようなことは一切ありませんでした。私に指図することもなく、常に私の意見を尊重してくれました。お互いに話しがまとまったら、落ち着いて座り、ジャイブを始めます。その後彼のようなジャズ・マンには出会っていません。私が知るだれよりも優秀なギター・プレーヤーです。それを一緒にプレイしていたときに目の当たりにしました。エディとレコードを作れたことは人生で最高の経験でしたよ」。


エディ・ラング&ロニー・ジョンソン - “Hot Fingers”(1929年)


世界恐慌はレコード業界にも大きな打撃を与えます。ロニーは1930年の“I Got the Best Jelly Roll in Town”のヒットで奮闘したものの、その後レコーディングの機会は奪われ、彼は製鉄所で働きながら、グレン&ジェンキンスのブラックフェイス・ミンストレルとツアーをし、シカゴのクラブで演奏することになります。デッカ・レコードの目に留まったロニーは、1930年代後半にわずかではあるもののセッションでエレキ・ギターをプレイするチャンスを得て、レコーディング・ギタリストとしてのキャリアを再開することができたのです。その後、彼はブルーバード・レコードに移籍し、1942年の“He’s aJelly-RollBaker”で大ヒットを記録しました。しかし、彼に運が巡ってくるのと時を同じくして、戦時中の物資不足により、レコーディングが一時的に禁止されることになります。ジョンソンはツアーに出て、中西部と西海岸で単発のステージをこなしました。しかし、彼の収入のほとんどは、ゴルフコースのグラウンドキーパーとしての仕事を含む、音楽以外からのものでした。戦争の終わりにレコーディングが再開されたとき、ジョンソンは最初に小さなインディ・レーベルのためにレコーディングし、彼のキャリアの中で最も精彩を欠いたレコードのいくつかをカットすることになります。


白人であることを伏せるため、彼らのジャズ・ギター・デュオ作品のいくつかでは、エディ・ラングは“ブラインド・ウィリー・ダン”の名でクレジットされています。

シンシナティを拠点とするキング・レコードと契約を結んだ1947年に、ロニーの運命は大きく変わります。1947年12月10日に行われた最初のセッションで、後にブルース・バラードの草分けとなる“Tomorrow Night”が録音されました。ピアノとアコースティックギターで構成された優しいともしびを思わせるこの曲は、ビルボードのナショナル・レース・レコーズ・チャートで7週にも渡り1位を記録しました。その何年か後には、この曲はロニーの代名詞となり、ジュークボックスやソックス・ホップ(20世紀半ばに若者の間で流行したダンスイベント)で流される定番曲にもなりました。B.B.キングは次のように回想しています。「ロニーが彼の代表曲とも言える“Tomorrow Night”を歌ったとき、彼はブルースという枠を超えた何かを成し遂げようとしながらも、同時にブルースの域から逸脱することもなかったという風に解釈しています」。その後も“Pleasing You (As Long as I Live)”、 “So Tired”の2曲がR&B チャートでトップ10入りしました。キング・レコードと契約をしていた5年間で、ロニーは数多くのR&B寄りなシングルを様々な形で録音しています。


1952年、ロニーはアメリカ人として初めてイギリスでツアーを行ったブルース・アーティストでした。この時のコンサートは好評を博しましたが、これがこの時期におけるメジャーな最後の公的なパフォーマンスになります。イギリスから帰国した後、彼は居をフィラデルフィアに移し、ベンジャミン・フランクリン・ホテルで掃除夫の職を得ました。それからというもの、コミュニティ内で定期的に演奏したり、若いミュージシャンを教えたりすることを楽しんでいましたが、彼は自分の以前のブルースのスタイルでレコーディングをすることに対して意欲を失ってしまったのです。


しかし1959年になると、突如レコーディングの世界へと復帰します。フィラデルフィアのジャズを専門とするラジオ局の番組、WHAT-FM でDJを務めるクリス・アルバートソンが、番組内でロニーは今何をしているのだろうかと話しました。それを聞いていたロニーを知るバンジョー/ギター・プレーヤー、エルマー・スノーデンは、局に電話をし、アルバートソンに彼の近況を伝えました。ベンジャミン・フランクリン・ホテルの管理部上長は、確かにロニー・ジョンソンという名の人物が同ホテルで働いていると回答しながらも、果たして彼がかつてのスターと同一人物であるか懐疑的でした。しかし彼はアルバートソンに、「彼はギターを弾くかもしれません。いつも手にケガを負わないよう気を配っていて、仕事中はいつもグローブを付けていますからね」と話しました。それを聞いたアルバートソンは、ホテルで掃除夫として働くロニーが、正に自分が探し求めている人物だと確信しました。


アルバートソンは早速その週末、コロムビア・レコードのプロデューサーであるジョン・ハモンドと、リバーサイド・レコードのオリン・キープニュースとともに、ロニーとスノーデンのもとを訪れます。アルバートソンがテープを取り出し、その場に居た二人が演奏し、音楽を通じてストーリーが交わされるのを録音しました。アルバートソンはロニーについて「その晩は素晴らしい音楽で満たされていました。道を踏み誤り、悲しい表情を携えた彼は、やせ細って実際の歳よりも随分若く見えました」、と後述しています。ハモンドとキープニュースは、ロバートによるレコーディングを引き受けることを了承し、アルバートソンはそのテープをプレステージ・レコードのオーナー、ボブ・ウェインストックのもとに持ち込み、レコーディングする許可を得ました。こうしてロニーは、レコーディング・アーティストとして復帰することとなります。「私は既に4~5回死んだも同然です。しかしいつだって戻ってきました。今回も、いつか誰かがどうにかして自分を見つけ出してくれると信じていました」とロニーは微笑みました。


ロニー・ジョンソン - “Tomorrow Night”(1947年)


その後セッションが行われ、ロニーはプレステージ・レコードの子会社であるブルースヴィル・レコードから4枚のアルバムをリリースし、高評価を得ました。リラックスしたムードの中、巧みにプレイされたブルース&バラード、そしてブルース/バラード&ジャンピン・ジャズの最高のパフォーマンスは、気心の知れた同志であるロニーとスノーデンが共にギター・パートを担当したからこそ生まれたと言えます。ロニーはヴィクトリア・スピヴィーとの活動も再開し、共同で『Idle Hours』と『Woman Blues』、2枚のアルバムをレコーディングしました。この共作にインスパイアされた古くからの友人たちとともに、スピヴィーは自身のレーベル、スピヴィー・レコードをブルックリンで立ち上げます。スピヴィーは、「1963年から実質的にロニーは、私のレコード会社専属のスタジオ・ギタリストになりました」と話しています。その翌年、ロニーはシンシナティのキング・レコードから2枚のEP盤をリリースしています。


小粋な身なりのロニー・ジョンソン(1941年)

これらアルバムやシングルをリリースしたものの、ミシシッピ・ジョン・ハートやサン・ハウス、レヴァランド・ゲイリー・デイビスといった第二次世界大戦以前にレコーディングを行った他のアーティストほど、ロニーの人気は高まりませんでした。B.B.キングはそのおかしな現象に気が付いた一人でした。「私は歳を重ね、ブルースへの情熱が日々高まる中で、ロニーの功績や存在価値が世の中で十分に認知されていないことに心を痛めていました。識者たちは、「ピュアな」ブルース・アーティストや、ロバート・ジョンソンのように若くして亡くなった人生を悲劇の象徴のように美化するのが大好きです。彼らがブルースを必ずと言っていいほど悲劇と関連付けるのには嫌気がさしています」とB.B.キングは語っています。コロムビアの名プロデューサー、ジョン・ハモンドは、ロニーが他のギタリストほど脚光を浴びなかった理由のひとつを次のように推測しています。「彼はキャリアの後半になると、あまりブルースを演奏しなくなりました。フィラデルフィアのホテルで働いているところで再度見出されてからは、甘いゴスペル調の曲を歌ったり、ジャズのスタンダードをプレイすることが多くなりました。かつて存在したエッジはそぎ落とされましたが、時折昔の彼のスタイルがフラッシュバックする瞬間を見ることができました」。


ロニーは人生の後半をトロントで過ごしました。ペニー・ファージングというライブハウスで定職に就き、ジャズ、バラード、ブルースなどを演奏し生計を立てていました。ジム・マクハーグは次のように述べています。「ロニーは複数のジャンルをこなせる、クロスオーバー・タイプのアーティストでした。そして独自のスタイルを貫いていました。ですから、ブルースを聴きたがっている観客の前で、場違いと思われるであろうありきたりで甘ったるいバラードを歌ってみせることもありました。彼は観客に媚びることなく、自分がやりたいように、歌いたいと思うものを歌いました。彼は自由の精神を重んじていました。そんな彼にとって、ありのままのロニー・ジョンソンを受け入れてくれるトロントという街は居心地が良かったのでしょう。そこでは、彼を狭い鳥かごに閉じ込めるような真似をする人はほとんどいなかったのです」。


1963年の9月から10月にかけて、ロニーはアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルの一環で、ヨーロッパ17都市でパフォーマンスをしています。マディ・ウォーターズ、オーティス・スパン、ウィリー・ディクソン、ビッグ・ジョー・ウィリアムス、サニー・ボーイ・ウィリアムスンも同ツアーに参加していました。上質なグレーのスーツに身を包み瀟洒な出で立ちのロニーが、伴奏を伴わないアコースティック・バージョンで、遊び心溢れる“Too Late to Cry”のソロを演奏する姿が映像に残っています。彼が海外に滞在中、イギリスの雑誌『Jazz Monthly』のために取材をしていたヴァレリー・ウィルマーが、彼に自身のジャズ・スタイルを尋ねたところ、彼はこう答えました。「他のアーティストが歌わないもの全てをひとまとめにしたのが私のスタイルです。カントリー・ブルースで表現する人も居れば、ロックンロールで表現する人もいます。私の場合は、シティ・ブルースです。私の歌うブルースは、恋愛関係で傷ついた心や身辺の移り変わりなど、人々のリアルな生活を基に作られています。実際に自分の目で見たものを曲にするのが生業です。他者を理解し、それを音楽で伝えるのが私にとって最善の道です。私のスタイルは、自分がどの国の出身であるかということと一切関わりがありません。私のスタイルは、自分の魂に宿っているものから生まれました。自分の胸の内の苦しみ、自らの人生に起きたこと。そういった実体験がより良いブルース・シンガーを生みます。私はブルースもバラードもスイングも、何でも歌います。生活をしていくためにはそうする他ありません。ブルースが好まれないところでは、仕事にあぶれてしまいますからね。その時々で、求められていることに応えることが必要です」。


アメリカ議会図書館に収蔵されている、1941年にラッセル・リーが撮影したロニー・ジョンソンのパフォーマンス姿

1965年にロニーは、コロムビア・レコードがリリースしたアルバム、『Jim McHarg’s Metro Stompers』と『Stompin’ at the Penny』のレコーディングに参加しました。同年彼が友人のバーニー・ストラスバーグのもとを訪れた際に、他の誰かが所有するエレキ・ギターを手にして聞かせてくれた極上のブルースとジャズは、『The Unsung Blues Legend: The Living Room Sessions』に収められています。彼の最後のレコーディングとなったのは1967年にフォークウェイズ・レコードからリリースされたアルバムで、ブルース、ポップ、R&B、ジャズ・スタンダード、ロックが入り混じった、インスピレーション溢れる楽曲と、4分に渡る“The Entire Family Was Musicians”というインタビューが収録されています。全盛期を過ぎ70代半ばに差し掛かってもなお、ロニーは感情豊かに堂々と歌い、次から次へとコーラスを繰り出し完璧にソロをこなしました。最後のトラックで、彼は自身のレコーディング・キャリアをスタートさせたときと全く同じ場所で、そのキャリアを終わらせました。彼はマイクに向かってこう言いました。「もう1曲ブルースを聴きたいですか?OK、それじゃあ大昔に作った曲を1曲披露します。これはオーケー・レコードで初めて録音した“Falling Rain Blues”という曲で、かなりヒットしたんですよ」。最後の音が完全にフェードアウトした瞬間に、彼は42年に渡るレコーディング・キャリアの幕を閉じました。その後彼は、1970年6月16日に自宅で死去しました。


ロニー・ジョンソンによるライブ - “Another Night to Cry”(1963年)


ヴィクトリア・スピヴィーは『Record Research』の中で、ロニーを追悼し、こう書き記しています。「ロニー・ジョンソンは業界で最も素晴らしいブルース・ギタリストでした。彼はまた、優れたブルース・バラード・シンガーでもありました!T-ボーン・ウォーカー、B.B.、アルバート・キング、マディ・ウォーターズ、そしてその後登場した若手のバディ・ガイ。誰の曲を聴いてもロニーのギターを聴くことができます。白人の若者たちもロニーの影響を受けていますが、彼らはB.B.から影響を受けていると思っているでしょうね。B.B.とT-ボーンが、事あるごとにロニーから大きな影響を受けたと話しているのを聞くと、私も幸せな気持ちになります。私はロニーに、生前に地上の天使、ルイ・アームストロングとプレイしていたときと同じように、天国でも一緒にプレイを楽しんで、と語りかけています」。

Primary photo: Getty Images/Bettmann Archive
OKeh Records ad: Courtesy Tim Gracyk
Record label photo: Courtesy Roger Misiewicz and Helge Thygesen
Publicity photo from 1927: Courtesy Jas Obrecht

長年『Guitar Player』のエディターを務めたジャス・オブレヒトは、『Rollin’ and Tumblin’: The Postwar Blues Guitarists, Early Blues: The First Stars of Blues Guitar, Talking Guitar』、『Stone Free: Jimi Hendrix in London』を始めとする、ブルース及びロック・ギタリストについての著書を数多く執筆しています。


*ここで使用されている全ての製品名は各所有者の商標であり、Line 6との関連や協力関係はありません。他社の商標は、Line 6がサウンド・モデルの開発において研究したトーンとサウンドを識別する目的でのみ使用されています。