ジミ・ヘンドリックスがギターを覚えるまで Pt. 1 — 幼少期の音楽体験、そして初めてのギター

 

ジミ・ヘンドリックスは、ちゃんとしたレッスンを受けたり、楽譜の読み方を習ったこともなければ、教本を開いてみたことさえありませんでした。しかし、1966年9月からの4年間の中で、彼はロックの最もアイコニックなギタリストとしてのスタイルを確立しました。いったいなぜこの驚異的な才能が開花したのでしょうか。本質的なクリエティビティの多くは内面から来るものであり、この質問に完璧に答えられるのはジミ本人しかいません。しかし、彼を最もよく知っていた人々の回想を通して、ジミが楽器に興味を持ったきっかけや、変幻自在なミュージシャンになるまでの道のりをある程度解き明かすことは可能です。


ルイ・アームストロング、ビリー・ホリデイ、ボブ・マーリーを始めとする、偉大なミュージシャンの多くと同様に、ジミ・ヘンドリックスも貧しい家庭環境で育ちました。1942年11月27日シアトルに生まれた彼は、父親のジェームズ・“アル”・ヘンドリックスが第二次世界大戦の太平洋戦線に出征している間、カリフォルニア州オークランドのフォスター・ファミリーのもとで育てられました。戦場から戻ったジェームズは、ジミが生まれてすぐに出奔してしまった妻、ルシール・ジェター・ヘンドリックスと再び暮らすようになりました。しばらくの間、3人はレーニア・ビスタ住宅街で一緒に生活をしていましたが、当時ジミはクローゼットの中で寝ていたそうです。アルと私の共著『My Son Jimi』の中で、アルは次のように当時を振り返っています。「私とルシールが口論になったときにも、彼はクローゼットに隠れていました。私もルシールも気性に関しては似た者同士で、彼女は怒ると周りのものに当たり散らしていました。その頃には、ジミもなぜ私たちが口論になっているのか十分に理解できる年齢になっていましたね」。ジミは、初めて会う人に紹介をされると母親のスカートの後ろに隠れてしまうようになり、吃音症を発症し、“セッサ”と名付けた空想上の友達を登場させて現実逃避するようになったのです。


ジミをとても可愛がっていたアルの母親、ゼノーラ・ヘンドリックスは、第一次世界大戦以前は黒人たちによるボードビル(寄席演芸)でダンス・パフォーマンスをしていました。アルもまたタップダンスとジターバッグ(ジルバ)の達人で、歌声も素晴らしく、家でよく歌を歌っていたので、ジミも幼い頃から音楽に強い興味を持っていました。アルは著書で次のように語っています。「彼はよく足を踏み鳴らしたり、鍋を叩いたりしていました。鍋がへこんでしまうので、代わりにスティックと箱を与えました。彼のためにタバコの箱を改良して、ギターのような楽器も作りました。箱の上部に穴を開け、ふたが開いてしまわないよう密閉してから、木製のネックを取り付け、弦には輪ゴムを使いました。それを使ってできる音楽には限りがありましたが、架空の楽器としてはよくできていて、たくさん使ってくれましたね。彼はハーモニカも持っていましたが、それでちゃんと曲を吹けるようにはなることはなかったです。その次に彼が手に入れたのは、アルが誰かの家の地下室を片付けているときに、たまたま見つけたウクレレでした」。


ジミの母親は、アルコール依存など様々な問題を抱えており、時には他の男と姿を消し、何日も家に戻らないこともしばしばでした。「ジミはルシールが家庭放棄していることに気がついていて、そのことは彼に大きな影響を与えたはずですね。ルシールと一緒にいることは、まるで時限爆弾を抱えているようなものでしたね」とアルは悲しげに語っています。1950年にアルは離婚を申請し、その後ルシールは他の男たちとの間に4人の子供をもうけました。その最初のひとり、レオンはジミより6歳年下で、唯一ジミと一緒に育てられました。1950年代のアルの家計は非常に厳しく、ジミとレオンを親戚のもとに残し、働きに出ることも頻繁にありました。


ジャス・オブレヒトとジェームズ・“アル”・ヘンドリックス(1998年)


ジミはシアトルのレスチ小学校に通っていました。彼の小学校時代の友人は、ジミが穴の開いたお下がりの服を着ていたことを覚えていました。彼は内またで歩き、ぼそぼそと話し、引っ込み思案で人の目を見ることもできなかったといいます。節約するために、アルはジミの髪を自分で切ったり、馬肉を食べさせたりしていました。ジミが自分の母親のことを全く口にしなかったため、ジミと仲良かった友人たちは、母親は死んだものだと思っていたそうです。ジミの祖母は、毎週日曜日に彼をチャーチ・オブ・ゴッド教会に連れて行っていました。「ジミは教会で歌うこともなく、聖歌隊に参加することもありませんでした。学校の音楽の授業で彼がどのような様子だったかはわかりませんが、私が知る限りでは歌っているのを聞いたことがありません。彼は恐らく音階というものをわかっていなかったのだと思います」とアルは当時を振り返っています。


ギターを初めて手にする前のジミは、変な声でしゃべったり、アート作品を創ることでクリエイティブな表現をすることを好みました。スポーツイベントや馬、ドラゴン、自動車、第二次世界大戦の戦いのシーン、鎧を着た騎士、抽象画、風景、1950年代のロックバンドがステージでパフォーマンスする様子など、多くのスケッチや絵画を描いています。これらアート作品の他に、アルは彼が叔父のフランク、叔母のパール、いとこのダイアン、ボビーのもとで過ごしている間に描き残したスケッチブックも保管しています。アコースティック・ギターを手にした若かりし頃のエルビス・プレスリーのイメージの周りには、ジミの手書きによる“Rip It Up”、“Don’t Be Cruel”、“My Baby Left Me”、“Love Me Tender”、“Heart Break Hotel”、“Peace in the Valley”、“Blue Suede Shoes”、“Hound Dog”、“I Want You, I Need You, I Love You”、“Parilized”、“Honey Don’t”、“I’m Playing for Keeps”、“Be Bop a Lu-La”、“I Need Your Lovin’”、“Too Much”、“They had a record player”という曲名が散りばめられていました。またボビーによると、ちょうどその頃にジミは音楽に夢中になり始めたそうです。ジミはエルビス・プレスリーの“Hound Dog”とリトル・リチャードのEP盤を聴くのが好きでした。エルビスのコンサートにも足を運び、彼のスケッチ画もいくつか残しています。ジミは、1957年9月1日に初めてエルビスがシアトルを訪れたときのコンサートを観ることができました。


アルによると、1958年2月2日に母親が亡くなるまでは、ジミがギターを弾くことに関心を持つことはなかったそうです。当時ふたりは、29番アベニューにある下宿の1部屋で一緒に暮らしていました。残された中でも最も悲痛さが伝わるジミの絵は、顔を腕で覆いソファにもたれかかったアルの姿を描いたものです。この絵には「眠る父」というタイトルと、1958年2月7日の日付が添えられています。これはルシールの葬儀の日かその前後の日付です。アルもジミも葬儀には参列しませんでしたが、その描かれた絵は、深い悲しみが滲み出た作品です。「ジミは母親の死を嘆き、悲しみで泣いていました。彼がどのようなことを考えていたのかはっきりとはわかりませんが、彼女の死がショックだったことは間違いありません。そして彼女の過ごした人生に対して、少し怒りも覚えていたかもしれません。彼女の人生はあまりにも短かいものでした。ギターを弾くことが、母親に対する感情を乗り越えるための術のひとつになるであろうとは、その時誰も想像していませんでした」とアルは語ります。


ルシールの葬儀の直後に、アルはジミと暮らしていた下宿の部屋の床に、わらのほうきが何本か落ちているのを見つけました。アルがジミに訊ねてみると、「ほうきをギターに見立てて遊んでいたんだ」と答えたそうです。下宿先の大家の成人した息子、ジェームズ・マッケイが、当時よくポーチに座り、アコースティック・ギターでブルースを弾いているのをジミは聴いていました。ある日ジミがギターを習いたいとアルに言い、アルはマッケイのギターを5ドルで買い取りました。左利きだったジミは、最初右利き用のギターをなんとか弾こうとしていましたが、弦を張り直し本体をひっくり返して弾くようになりました。文字を書いたり、食事をするときには右利きにするよう、アルは何度もジミに言い聞かせましたが、ジミは右利きよりも左利きのほうが弾きやすいと聞き入れず、アルは「好きにしたらいいさ」と答え、それ以上何も言わず、ジミがしたいようにさせておきました。ジミは最初から、ピアノを1本指でポロンポロン弾くような感じで、簡単なリフの練習を熱心にしていました。そして最初に弾けるようになった曲のひとつは、テレビ番組『ピーター・ガン』の主題歌で、弾き始めたばかりにも関わらず、すぐにある程度ギターを弾くことができるようになっていたのです。


簡単に弾けて、フックもキャッチーなヘンリー・マンシーニが手掛けた“ピーター・ガンのテーマ”は、1950年代後半に初心者ギタリストが練習するにはちょうど良い楽曲だったと言えます。スタジオ・ギタリストのボブ・ベインは、ネックの位置にハムバッカー・ピックアップを取り付け、ビグスビーのビブラート・テイルピースを追加してモディファイしたFender Telecasterで、この曲をプレイしていました。


ジミは自分でギターを弾くようになる以前から、アンプで強く際立たせられたエレキ・ギターがフィーチャーされたブルースのレコードを好んで聴いていました。1968年のローリング・ストーン誌によるインタビューで、ジミは次のように明かしています。「最初に知ったギタリストはマディ・ウォーターズだったよ。まだ幼かった頃に彼の古いレコードのうちの1枚を聴いて、死ぬほど驚いたよ。彼のギター・サウンドをすべて聴いて、いったいこれは何なんだ?凄いと思ったね」。またジミは、音楽に関しては、シアトルのR&Bとロックのラジオ番組、そして周りの友達からの影響も大きかったと語っています。アルは次のように当時を振り返っています。「ジミはあちこちから、ちょっとずつ影響を受けたようです。それに加え、ギターはほとんど独学で習得しました。教本を与えたり、レッスンを受けさせたことはありません。彼は庭でギターを弾くのが好きでした。通りがかった子がやってきて、裏庭で一緒に演奏したりすることもありました。一時期は、当時友人だったジェイムス・ウィリアムスのバックでギターを弾いていました。ジェイムスは人気のバラード歌手を目指していたのです。ジミがギターを手に入れる前の話ですが、ジェイムスと彼は親たちの前で披露するタレントショーでも一緒にパフォーマンスをしたこともあります。彼らは家の周りで練習し、何を歌うのか考えていました。インク・スポッツの曲だったように記憶しています。ジミは歌声に関しては、歌うと音を外してしまう母親のルシールの血を受け継いでいて、ジミが歌うとふたりは大笑いしていました」。


ジミと以前、高校のクラスメートだったメアリー・ウィリックスは、当時シアトルで彼のことを知る多くの人にインタビューをしています。1995年に発行された『Jimi Hendrix: Voices From Home』は重要な参考書であり、これらのインタビューからは、ギターを弾き始めたばかりの当時のジミをうかがい知ることができます。ピアノを習っており、小学校3年生からジミの友人であったトレイ・ジョンソンは、ジミがアコースティック・ギターを手に入れたときのことを次のように語っています。「うちの家の奥に、僕たちがプレイルームと呼んでいた部屋があって、そこには鍵盤がいくつかなくなってしまった僕の母のアップライトピアノがありました。子供だった僕たちにとって、その部屋は、ある意味神聖な場所でした。ジミは弦を張り直したターコイズの小さなギターを所有していました。彼は左利きだったので、右利き用とは逆の方向に弦を張り直してあって、彼がチューニングを終えると一緒にプレイし始めます。ふたりとも歌は下手でしたが、声を張り上げなんとか最後まで曲を歌うことはできました。僕たちは古いEP盤を聴きながら、即興で演奏していたものです」。


「僕たちはまず、弾きたい曲のキーが何なのか判別することから始めました。そしてしばらくレコードを再生したら、また頭から再生する。これを繰り返すのです。ジミはギター・パートを理解し、覚えるまで聴いていました。ロックンロールの人気が高まるにつれ、僕たちにはお気に入りのレコーディング・アーティストを選別するようになりました。ジェームス・ブラウン、ファッツ・ドミノ、リトル・アンソニー、リトル・リチャードらをよく聴いていましたね。なかでも、その当時はリトル・リチャードが一番お気に入りでした。彼の曲にはピアノ演奏と、ジェリー・リー・ルイスもそうですが、ギターのラインも多く入っていて、当時のロックンロールの世界ではそれが主流でした。そういったことから、僕たちのお気に入りのアーティストは、ピアノがメインでバックにギター、またはギターがメインでバックはピアノ、という構成だったりしました。当時は、レイ・チャールズの“What’d I Say”をよくプレイしていましたね。他には、“Lucille”、“Good Golly Miss Molly”、“Slippin’ and Slidin’”、“Blueberry Hill”、“Long Tall Sally”、“Johnny B. Goode”、“I’m Walking”、“Doin’ the Stroll”、“Walkin’ to New Orleans”などもプレイしていました。ジミはその頃から自分が感じていることを表現するサウンドを模索していました。彼はリズム&ブルースのギタリスト、特にアルバート・キングやフレディ・キング、B.B.キング、ボビー“ブルー”ブランドに共感することが多かったようです。」(トレイ・ジョンソン)


「僕たちのお気に入りの曲のひとつは、アール・キングの“Let the Good Times Roll”でした。この曲にはジミがリードを弾いて、僕がバッキングをするのにちょうど良いギター・パートがあって、僕たちはかなり一生懸命に練習しました。後に彼がこの曲をアルバムで弾いているのを聴いたときには、この曲を弾く子供だった自分たちへのトリビュートのようだと思わずにはいられませんでしたよ。実際に、僕たちは学校からの帰り道、よくこの曲を歌っていたものです。僕がピアノ・パートを口ずさみ、ジミは自分のギター・パートを口真似し、家に着くと今度は楽器を手にして演奏するんです」とトレイは回顧しています。キング・レコードからPart 1とPart 2の2部構成でリリースされたアール・キングのオリジナルバージョンのEP盤“Let the Good Times Roll”は、ブルースであり、R&Bでもあったと言えます。

キング・レコードのEP盤は、ジミに影響を与え続けました。1968年8月に、『Electric Ladyland』の最後の1曲が必要になったとき、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはニューヨーク市のRecord Plantで、“Let the Good Times Roll”を14テイクもレコーディングしました。ベーシストのノエル・レディングによると、この曲は前もってリハーサルをしておらず、少なくとも6テイクは頭で間違えて使い物にならなかったそうです。「ジミが『この曲はEだから』、と言っただけでレコーディングが始まりました。ぶっつけ本番でプレイして、それでも有難いことにアルバムに採用されたのです」とノエルは語っています。結局、最後のテイクが“Come On (Let the Good Times Roll)”というタイトルで、同アルバムに収録されました。このセッションのアウトテイクで、ジミはソロの部分を長くしてプレイしています。


1959年頃、アルは定職を見つけ、ジミと1314 イースト・テラスに移り住みました。2部屋あったそのアパートはネズミや害虫だらけ、隣人たちは常に酔っぱらっていて、建物の前では売春婦たちが客引きをしているような環境でした。「あの厄介で古ぼけたアパートには、何ひとつ良いことはありませんでした。ですが、文句を言っていても始まりません。ここに住むしかないし、これが今自分たちにできる最善のことだとジミと話しました。このアパートに住んでいる間に、ジミの愛犬プリンスがいなくなってしまったのです」とアルは当時を振り返ります。


こんなイースト・テラスの劣悪な環境での暮らしの中でも、ヘンドリックス家にとって良いことも起きました。ジミ・ヘンドリックスが、初めてのエレキ・ギターを手に入れたのです。それはアルが1番アベニューにあったMyers Empire Music Exchangeで購入した、白い右利き用のSupro Ozarkソリッドボディ・ギターでした。アルもまた自分用に中古のCメロサックスを購入しました。隣人が相当うるさかったため、ジミとアルが窓を開け放って楽器を演奏していても、誰も苦情を言いませんでした。「サックスについて何も知らなかったので、音階を探り探りとにかく吹いてみました。そんな私を見て、ジミはピアノを1本指で拙く弾いている人と同じだとからかっていましたよ。私たちは、そんな感じで練習を始めました。ふたりとも心から楽しんでいましたが、ジミにはアンプがありませんでした。いつかは買ってやろうと考えていましたが、結局買い与えるチャンスがありませんでしたね。しかし彼は、ギターそのものから上手く音楽を生み出すことができたのです。友達の家に遊びに行ったときには、友達のアンプを使わせてもらっていました。彼は文句ひとつ言いませんでしたよ」とアルは語っています。アルが楽器を購入したローンの支払いを滞納した際に、Myersからどちらかの楽器を返すように言われましたが、ジミのギターはもっとうまくなると考え、自分のサックスを返却したそうです。


ジミはSupro Ozarkを手にしてからというもの、夢中で練習するようになりました。「あのエレキ・ギターを手に入れてからは毎日弾くようになり、すぐにリード・ギターのパートを練習し始めて、いつも『もっとあんな風に弾けたら。こんな風に弾けたら』と言いながら一日中練習に明け暮れました。本当に文字通り、毎日弾いていましたね。彼はどこに行くにも、いつもギターを持ち歩いていましたが、諸説あるものの、必要とされる特別なクラスやイベントでもない限り、ジミが高校にギターを持ってきたことはなかったようです。この頃によくアルとジミのアパートに泊まりにきていたレオンも、次のように語っています。「ジミは、ギターを抱きかかえたまま朝目覚めることがよくありました。起きてからまずベッドルームですることと言えば、歯も磨くでもなく、トイレに行くでもなく、リックを弾くことでした。その後彼がギターのマスター、そして伝説的な存在になったのは必然でしょう」。


彼はギター・アンプで鳴らすために、地元のRotary Boys’ Clubに足を運ぶようになります。テリー・ジョンソンは次のように語っています。「そこにはサウンドチェック用のアンプがありました。ジミも自分のギターを繋いで、アンプから出る自分のギター・サウンドがどんなものかチェックしました。そして新しいサウンドを作り出すだめに、あれこれアンプで試行錯誤を繰り返していたのです。50年代後期のアンプには、曲の響きと揺れを変更するため2種類の装置、エコーチャンバーまたはリバーブ、そしてトレモロ・スイッチが備わっていました。ジミはリバーブを使って、遠くから聞こえてくるようなエフェクトをかけるのが好きでしたね」。ジミとテリーが練習しているのを聴いたBoys’ Clubの責任者は、彼らにバンドを組むよう勧めました。


Coming Soon: ジミ・ヘンドリックスがギターを覚えるまで Pt. 2 — シアトルのバンド時代とそれ以降


Jimi Hendrix photo: David Redfern, Getty Images Redfern Collection
Jas Obrecht and James “Al” Hendrix photo: Saroyan Humphrey


長年『Guitar Player』のエディターを務めたジャス・オブレヒトは、『Rollin’ and Tumblin’: The Postwar Blues Guitarists, Early Blues: The First Stars of Blues Guitar, Talking Guitar』、『Stone Free: Jimi Hendrix in London』を始めとする、ブルース及びロック・ギタリストについての著書を数多く執筆しています。


*ここで使用されている全ての製品名は各所有者の商標であり、Line 6との関連や協力関係はありません。他社の商標は、Line 6がサウンド・モデルの開発において研究したトーンとサウンドを識別する目的でのみ使用されています。