ジミ・ヘンドリックスがギターを覚えるまで Pt. 3 — 「史上最も野心的なプレーヤー」になるまで

 

落下傘兵としての訓練を受けるため、11月に第101空挺師団の本拠地であるケンタッキー州のフォート・キャンベルに到着してすぐにジミは別の訓練兵のひとり、ビリー・コックスと出逢います。ジミとビリーは生涯にわたる友人となり、エクスペリエンスを結成する以前には一緒にバンド活動もしています。1988年にビリーは私に次のように語ってくれました。「映画館から戻ってくるときに雨が降り始めたので、急いでService Club No. 1の戸口の上り段に駆け上がりました。そこは楽器を借りてプラクティス・ルームを使用できる建物なのですが、誰かが今までに聴いたこともないサウンドでギターを弾いているのが聞こえてきたのです。そのサウンドは未完成ではあったものの、将来必ずものになると私は確信しましたね。表現するならば、ジョン・リー・フッカーとベートーヴェンを足して2で割ったようなサウンドとでも言いましょうか。私は部屋に入り彼に挨拶をし、自分はベースを弾くのだと話しました。そして私はベースを借りてきて一緒にセッションを始めたのですが、そうした関係はその後長年続くことになります」。


ビリーは当時のジミのスタイルはしっかりとブルースに根差していたと言い、次のように振り返っています。「一緒にプレイするようになったとき、当時の自分たちにはレパートリーが限られていたというのもありますが、最初から私たちはブルースの曲ばかりプレイしていました。基本的に彼はR&B、つまりリズム&ブルースのプレーヤーで、チャック・ベリー以外に好んで聴いていたのも、コンテンポラリーなブルースのアーティストたちでしたね。特にスリム・ハーポ、マディ・ウォーターズ、ライトニン・ホプキンス、ハウリン・ウルフ、アルバート・キング、B.B.キングがお気に入りでしたよ。ジミは、彼らは素晴らしいブルースマンだと言っていて、私たちが最初の頃よくプレイしていた多くの曲は、彼らのものでした。私たちはまずそういった曲からスタートし、その次にトップチャートに入っている人気のリズム&ブルースの楽曲を弾くようになり、徐々にポップ・ナンバーも弾くようになったのです。12月になると、ジミは彼の赤いDanelectro Shorthornを送るようアルに頼んで、彼は陸軍に入隊してから除隊するまでの1年間、ずっとそのギターを弾いていましたが、少しお金を稼げるようになってから、私が連帯保証人になり、彼はそれを下取りに出してエピフォンを手に入れました」。ビリーによると、“ベティ・ジーン”と名付けられていたDanelectro Shorthornは、後に火事に遭い焼失してしまったそうです。

1970年にワイト島音楽祭で、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスと一緒にパフォーマンスするビリー・コックス。

ジミは陸軍での生活に馴染めませんでした。1962年に除隊した後、彼はプロのミュージシャンとして働けるよう仕事を探し、ナッシュビルの小さなクラブで演奏するようになります。ビリーとジミはルームメイトとして一緒に生活を始め、キング・カジュアルズというバンドを結成しました。地元ナッシュビルに戻ったふたりは、よくブルースのレコードに合わせギターを弾いていたそうです。ビリーは次のように語っています。「私たちはジェロ(ゼリー菓子)やストロベリー・アップサイドダウン・ケーキを食べながら、アルバート・キングやB.B.キングのレコードを引っ張り出し、リックをいくつか弾いて時間を過ごしました。その頃ジミは、アルバートがリックを弾く際に熱が入りしていた表情を、ギターを弾きながら真似していたことをよく覚えています。ジミはアルバートの真似をすることが大好きでしたね。アルバート・キングが彼に与えた影響は、それはもう多大でした。当時人々は最先端の曲を聴くのが好きで、特にボビー・ブルー・ブランドやアルバート・キング、B.B.キングは人気がありました。ギターの面において、彼らがジミに与えた影響は計り知れませんが、実際にジミ・ヘンドリックスが聴衆に聴かせていたサウンドは、単にそういった偉人たちを模倣する世界を超越して進化した領域に入っていたのです。私たちはシェイク・ダンサーや、街を訪れる様々なグループのバックで演奏もしましたし、ジミは“Misty”や“Moonlight in Vermont”、“Harlem Nocturne”といった曲をオリジナルのキーで弾くこともできました。でも、彼は自分の目指す場所、そしてそこにはどうやったらたどり着けるのか本能的に分かっていて、それ以外の音楽にはあまり興味を示さず、自分だけの個性を備えた音楽を冒険的に追求したいと思っていたんですね」。


ジミのギターに対するゆるぎない情熱も、社会的に見ると相応の代償がありました。ビリーはこうも語っています。「この頃周りの人たちは、彼を頭のネジが外れた人を意味する“マーブルズ”というニックネームで呼んでいたのです。ジミはどこに行くにもエレキ・ギターと一緒で、通りを歩くときもギターを弾いていました。ショーで弾いた後の帰り道でも、ギターを弾き続けていて、わずか5年の間に25年分ぐらいの時間をギターに費やしていたと思います。彼は毎日欠かさず、いつ見てもギターを弾いていましたから。人々はジミが正気を失ってしまったと思ってそう呼んでいたのです。なぜいつもギターを弾いているのか理解ができなかったのですね。でもジミにとっては、ギターは体の一部のようなもので、肌身離さずにはいられなかったのです。彼にとってギターを習得するのは、口笛を吹けるようになる練習をするのと同じで、口笛は唇さえあればいつだって吹くことができますよね。朝ジミを起こすために彼の部屋のドアをノックする度に、前の日に着ていた服のままベッドに横たわり、ギターは常にお腹の上や体の脇にありました。彼は一晩中練習していたんです」。


ジミの執着にも似たギター愛は、生涯絶えることはありませんでした。ブルースに造詣が深く、シカゴのクラブでマディ・ウォーターズやハウリン・ウルフといった巨匠たちとも共演したこともあるマイク・ブルームフィールドは、それを目の当たりにしたひとりです。彼らが初めて出逢ったのは、ジミがエクスペリエンスを結成するためイギリスに渡る数週間前のことでした。ブルームフィールドは当時を次のように振り返っています。「彼が滞在中だったホテルの一室を訪ねると、壁際には小型のKayのアンプがあって、彼はすぐさまギターを取り出すと、そのアンプで新しいサウンドを作りだすのです。彼は一向に弾くのを止めようとしませんでしたし、目覚めて最初にしたこともギターを弾くことでした。ふたりでニューヨークの街を探索していたときに、私がジミに『女の子をナンパしようよ』と言うと、彼は『それはまた別のときにいくらでもできるさ。それよりギターを弾こうぜ』と答えました。彼ほど成功するための野心を持ったプレーヤーに会ったことがありません。彼がギタリストとして大成したのも当然です」。


「ボビー・ウーマック、カーティス・メイフィールド、エリック・ゲイルらが確立したプレイ・スタイルであるリズム&ブルースの世界においても、ジミは私が今までに聴いたことのある中で群を抜く最高のギタリストでした。スティール・ギター、ハワイアン・ギター、ドブロ・ギターなど、あらゆるギターの手法を身に付けているように思えましたね。彼のプレイには、カーティス・メイフィールドやウェス・モンゴメリー、アルバート・キング、B.B.キング、マディ・ウォーターズたちの影響をはっきりと聴くことができますが、同時に彼は、私の知る限り最も黒人らしさを持ったギタリストでもあったと思います。彼の音楽は、フィールドハラーやゴスペルのメロディなど、ブルースが誕生する以前に存在した最古とも言える音楽形式に深く根付いたものでした。私が情報収集した限り、彼はあらゆる形式のブラックミュージックを聴き、影響を受けていましたが、特にルーツである最古のブラックミュージックを愛し、それらが彼のプレイにも注ぎ込まれていましたね。私たちはよくサン・ハウスを始めとする古いブルース・ギタリストについて語りあったものです」。(マイク・ブルームフィールド)

ジェームズ・アル・ヘンドリックスが語り、ジャス・オブレヒトが著書にまとめた『My Son Jimi』の表紙。

マイクは次のように続けます。「とは言え、彼に大きな影響を与えたのは初期のマディ・ウォーターズとジョン・リー・フッカーのレコードですが、黎明期のエレクトリック・ミュージックにおいては、実際以上に存在感をアップする効果を加えるために、ギターの音がスタジオ内で大幅に増幅およびブーストされていました。そして彼はそのことをきちんと理解しており、『Electric Ladyland』に収録されている“Voodoo Chile”のロング・バージョンでは、ジョン・リー・フッカーとマディ・ウォーターズの昔のプレイ・スタイルの影響をはっきりと聴くことができます。彼は楽曲の構成や役割について強いこだわりを持っていて、数秒プレイするだけでも、曲全体がどのような構成になっているのか説明できたと思います。彼が好んでリズムギターを弾いていたのも、そういった理由からだったのです。リズムギターは曲全体の構成を組むのに大きな役割を果たします。彼なら『リードギター・プレーヤーは華があるけれど、最も重要なのはタイム感やリズムを習得することなんだ』と言うことでしょう」。


アルやレオン・ヘンドリックス、ビリー・コックス、マイク・ブルームフィールドらと同様、チャス・チャンドラーもジミのギターに対する情熱を目の当たりにしたひとりです。ニューヨークの古びたクラブでジミを見出したのがチャスでした。チャスは1966年9月にジミのロンドン行きを手配し、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを売り出すことに尽力しました。ロンドンで部屋を共にしていたチャスは次のように語っています。「ジミは朝起きると自分で朝食を準備していたのですが、ベーコンと卵を焼くときでさえ、彼はギターを手放しませんでしたね。毎日8時間以上ギターを置くことなく、さらに夜になるとライブでの演奏をこなしていましたし、トイレに行くときもギターと一緒で、個室の中で得られるエコーの音をいたく気に入っていました。トイレに何時間も座ったまま、アンプに繋がっていないFenderギターを弾いて、トイレの壁のタイルの効果で生まれるサウンドを楽しんでいたんですよ。大袈裟ではなく、彼は常にギターを手にしていたのです。彼は世界一のギタリストでした。ジミ本人も世界最高のギタリストになりたいと思っていましたし、そうなるための準備もできていました」。


ジミが人生の中で受けた音楽に関するアドバイスで、最も的を射ていたのは、カリフォルニア州フォート・オードの新兵訓練所に出発する直前に、父親のアルから伝えられた言葉かもしれません。アルはこう語っています。「あれは金曜日で、仕事が終わった後のことでした。ジミは『いつか有名になって、必ず音楽で成功してみせるよ』と私に言ったのです。すでに他の皆がやっている音楽のトレンドに乗るのは険しい道になることは明白だったので、『音楽ビジネスで成功するには、何かオリジナリティのあるユニークなことをしなきゃね。聴く人たちも、これは斬新だ!と注目するはずだから』と彼に言いました。そして彼は本当にそれを成し遂げたのです。ジミが有名になってから、彼と交わした会話を思い出し、私はこう思いました。『良くやったぞ、ジミ!』」。


ジミ・ヘンドリックスがギターを覚えるまで Pt. 1 — 幼少期の音楽体験、そして初めてのギター


ジミ・ヘンドリックスがギターを覚えるまで Pt. 2 — シアトルでのバンド活動、ベティ・ジーン、そしてブルース


Jimi Hendrix photo: David Redfern, Getty Images Redfern Collection
Billy Cox photo: Chris Walter/WireImage, Getty Images



長年『Guitar Player』のエディターを務めたジャス・オブレヒトは、『Rollin’ and Tumblin’: The Postwar Blues Guitarists, Early Blues: The First Stars of Blues Guitar, Talking Guitar』、『Stone Free: Jimi Hendrix in London』を始めとする、ブルース及びロック・ギタリストについての著書を数多く執筆しています。


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