ジミ・ヘンドリックスがギターを覚えるまで Pt. 2 — シアトルでのバンド活動、ベティ・ジーン、そしてブルース

 

ジミ・ヘンドリックスが最初のバンドを立ち上げたとき、彼が最初に声を掛けたミュージシャンのひとりは、幼馴染のギタリスト、パーネル・アレクサンダーでした。彼らは自分たちの駆け出しのバンド名を「Vibertones」にし、その後すぐにそれを「Velvetones」に変更しました。パーネルは当時を次のように回顧しています。「ウォルター・ジョーンズがドラムで、ロバート・グリーンがピアノ、ルーサー・ロブがテナー/バリトン・サックス、アンソニー・アサートンがアルト・サックス、そして私とジミがギターを担当しました。テリー・ジョンソンも時々一緒にプレイしました。そして私の父がマネージャーを務めてくれました。ポリッシュ・ホールやワシントン・ホール、ボーイズ・クラブからYMCAまで、あちこちでプレイしましたよ」。ロバート・グリーンは次のように語っています。「ジミとパーネルは、ふたりともパーネルのアンプに繋いでプレイしていました。彼らはそのアンプを見事に使いこなしていました。ふたりともチャック・ベリーの大ファンでした。私たちはチャック・ベリーの4曲のうち、“Little Queenie”他2曲、リトル・リチャードとファッツ・ドミノの‘Blueberry Hill’などをプレイしてましたね。私たちは大人向けにブルースの楽曲、そして若者向けには当時流行っていたものを幅広くプレイし、ポップスもやりました。イェスラー・テラス・ジムでのギグを成功させ、10代の若者たちがダンスに集まる毎週金曜日と土曜日の夜に数か月間プレイすることになったのです」。


同じ地元のバンド、Rocking TeensとVelvetonesとの間には、友好的なライバル関係が築かれました。パーネルは次のように語っています。「Velvetonesはマディソン・バレーに住んでいて、Rocking Teensはテラスに住んでいました。私たちは皆、お互いを良く知っていて、後にジミはRocking Teensに加入したぐらいです。とにかく、私たちはノースサイド/サウスサイドの顔として、因縁の仲だったと言えます。実は女性にモテたい一心だったのですが、バンドコンテスト“Battle of the Bands”ではいつも真剣勝負でした。VelvetonesとRocking Kingsのどちらかが勝者でしたね。当時、ベース・ギターについて全く知識がなかったので、ジミと私はギターをローCにチューニングしてベース・パートを弾いていたのです」。


パーネル・アレクサンダーは、次のようにも語っています。「ジミにとって、シアトル在住の若きギタリスト、ランディ・スナイプスも、彼の人並外れたショーマンシップを生み出すことにおいて大きな影響を与えたと言えます。我々は彼のことをブッチと呼んでいましたが、彼も才能ある素晴らしいギタリストでした。彼もまたジミと同じように、ショーマンシップに溢れていて、彼がジミに様々な離れ技を教えていたのです。ブッチは、ここシアトルで、背中や歯でギターをプレイした最初のギタリストでした。ジミはブッチから多くのテクニックを学びましたし、彼は私たちにいろんなことを教えてくれました」。アンソニー・アサートンもまた、「ジミにギターを教えていたのは、パーネル・アレクサンダーとブッチ・スナイプスでした」と証言しています。ルーサー・ロブも次のように当時を振り返っています。「ジミはブッチ・スナイプスから多くを学んでましたね。ブッチは時々、ベースのように弾くためにギターの弦を緩めることもありました。ブッチはとても変幻自在なギタリストで、私は幾度となく彼のプレイに驚かされたものです。ジミのギターを聴いてからブッチのギターを聴くと、お互いが相手のリックを弾いているんですね」。


ジミがその後加入したRocking Teensは、年長のメンバー数名が高校を卒業したタイミングで、Rocking Kingsに改名されました。彼らは、リッチー・ヴァレンスの“La Bamba”、ボビー・デイの“Rockin’ Robin”、 ザ・コースターズの“Yakety Yak”、ボビー・フリーマンの“Do You Wanna Dance”、 ダニー&ザ・ジュニアーズの“At the Hop”、チャック・ベリーの“Johnny B. Goode”、レイ・アンソニーの“Peter Gunn”といったトップ40に入るヒット曲のカバーをメインにプレイしていました。ジミの父親、アル・ヘンドリックスは次のように語っています。「彼らはよくある典型的な十代の若者たちによるバンドでした。彼らがプレイするのを何度も見ましたが、演奏もとても上手く、良いバンドでしたよ」。アルは、1960年2月20日にワシントン・ホールで撮られたRocking Kingsの写真を見て、お揃いのバンド・ユニフォームだった白いシャツにダーク色のネクタイ、ペグパンツ、淡いブルーのスポーツ・ジャケットをそれぞれ着たドラマーのレスター・エクスカーノ、サックス・プレーヤーのウェブ・ロフトンとウォルター・ハリス、ピアニストのロバート・グリーン、そしてSupro Ozarkを携えたジミをはっきりと見分けていました。


この写真には写っていませんでしたが、ジュニア・ヒースもまたRocking Kingsでプレイしていました。ヒースは次のように当時を振り返っています。「ギター・プレーヤーがふたりいたので、ひとりはチューニングを落としてベース・パートを弾き、もうひとりがリード・パートを弾いていたのです。私たちは、それぞれのパートを入れ代わり立ち代わりで弾きました」。ふたりともヒースのアンプを使ってプレイしていたそうです。ヘンドリックス家の向かいに住んでいたサム・ジョンソンが、しばらくの間バンドでベースを担当していました。ウォルター・ハリスは次のように語っています。「Rocking KingsはPTAによるダンスイベントやソックス・ホップ(20世紀半ばに若者の間で流行したダンスイベント)、フットボールの試合後やジム、ガーフィルド高校の音楽フェスなどでプレイしました。高校の生徒たちの間では、私たちは名の知れた存在だったのです。また私たちはセントラル・ディストリクトにあったダンスホール、Birdlandでも頻繁にプレイしていましたね。夜11時半まではアルコールは提供されず若者が入店でき、若者が帰る頃に大人たちが集まる場所でした。学校がある間は、毎週金曜日と土曜日の夜にプレイし、夏休みの間はホールがオープンしている水曜日から日曜日まで、毎日プレイしていましたよ」。


Jimi Hendrix – A History of his Guitars – Part 1


ハリスは次のように続けました。「ジミには飛びぬけた何かがありました。夏の間は一日中父親と庭仕事に出た後に、そのままの服装でバンド練習に現れることも少なくありませんでしたが、そんな彼を見て私は、時々気の毒な気持ちになったものです。でも、貧困層という点において、私たちも似たような境遇であったことに変わりはなく、皆同じように音楽を通して感情を表現するしかありませんでした。ジミに関しては私たち周囲の人間と比べて、いくつかの点においてあまり恵まれていなかっただけなんでしょうね。初めてジミの家を訪ねたとき、彼とアルはイースト・テラスの古びたアパートに住んでいて、彼が小さなラジオを持っていたのを覚えています。その後、ラジオから流れてくる曲なら、ジミはなんでも弾けることを知りました。しかもその曲と同じキーで。彼はとても熱心に練習していました。当時彼が一緒に練習できるのは、そのラジオだけでしたから。私たちのほとんどは幸運にも自宅にテレビがありましたが、ジミの家にはなく、ラジオしかなかったのです。バンド練習に行くときにジミを迎えに行くと、『父さんへ、晩ご飯は済ませたよ』と書き記したメモをテーブルに残すのを何度か見かけました。彼が晩ご飯に食べられるのは、シナモンロールと牛乳といったものです。誰も彼のために晩ご飯を作ってくれる人はおらず、それを見るのは辛かったですね」。


メアリー・ウィリックスが著書の『Jimi Hendrix: Voices From Home』でインタビューした他の人々の証言によると、彼は食べるものに困り、周りの人から食事をふるまってもらうこともしばしばだったそうです。ジミは常に物静かで穏やかな性格だったとハリスは言います。「ジミは、ほとんどの他の子たちと同じように真面目で大人しく、煙草を吸うこともなく、お酒を飲むこともありませんでした。喧嘩をすることも一切ありません。彼が暴言を浴びせられるのを何度か見かけましたが、誰かに対して怒ったり攻撃的な態度を取るのは一度も見たことがありません。彼は落ち着きがあって、平和主義で、皆から愛される男でしたね」。(ウォルター・ハリス)


1960年にトーマス&ヒズ・トムキャッツに参加し、ジミはさらにミュージシャンとしての経験を重ねることになります。アルは次のように語っています。「ジミは、ドラム以外にもありとあらゆる楽器を自宅に所有しているジェームズ・トーマスという人物について話をするようになりました。ジェームズはもう大人でしたが、私ほどの年ではなかったですね。彼は10~15人ほどの若者を集めて楽器を弾かせてる傍らで、常に音楽業界での儲け話に敏感で、軍の基地で彼らのためのギグを手配したりもしていました。彼はミュージシャンたちに、1人15ドル支払うと約束をしながら、それが守られることはほとんどありませんでした。バンドメンバーたちは出演料が支払われないばかりか、彼にいくらか借りを作ることさえありました。トーマスがバンクーバーでギグをする際にジミも同行させたのですが、道中で車が故障してしまい、若いミュージシャンたちに車を押させたそうです(笑)。そのハプニングが起きたあと、ジミは私にこう言いました。『僕は本当にムカついたよ。彼らとは二度と一緒にプレイしない』。でも、その後もプレイするチャンスが巡ってくるたびに、彼はそれを断ることができなかったのです。その度に彼は『多分今回こそはいくらかマシになるかもしれない』と自分に言い聞かせていました。ジミはどれだけ面倒なことが起きても、結局プレイできるチャンスのほうを優先していましたね。彼がパフォーマンスした場所のうちのひとつが、シアトルからタコマに向かう国道99の旧ルートの途中にあるSpanish Castleというダンスホールで、彼はよくそこで他のバンドとセッションをしていました。“Spanish Castle Magic”という曲名は、そこから生まれたのではないかと思います。歌詞の意味はよく分からないのですが、あの場所に行くのには1日もかかりません」。


常に自分の行動に責任を持つようジミに言い続けていたアルは、あるときから彼がギターを家に持って帰ってこなくなったことに気が付きました。最初ジミは、ジェームズ・トーマスの家に置いてきたと言っていましたが、アルが持って帰ってくるように強く言うと、遂にBirdlandでギグの合間に盗まれたことを白状したのです。アルは次のように語っています。「私はジミが嘘をついたことを怒りましたが、彼は盗まれたことを知られるのが怖かったのです。そして、別のギターを手に入れてくるまで数日待つように言いました。それから何日間か、ギターを失ったジミは他に何もすることもなく、手持ち無沙汰な様子でしたね。私の義姉でジミの叔母であるメアリーが、Myers Empire Music Exchangeでギターを購入してきてくれたのですが、私はギターを彼女に返してくるよう彼に言いました。私は何としてでも、自分の力でジミにギターを買い与えてやりたかったんですね。そして確か1ヵ月ぐらいはかかったと思いますが、彼にとって2本目のギターとなったエレキ・ギターをようやく買い与えることができました。ジミが陸軍に入隊中に、彼に送ったギターと同じものです」。ジミはこのシングル・リップスティック・ピックアップを搭載した、赤いDanelectro Shorthornを宝物のように大事にし、高校時代の彼女であったベティ・ジーン・モーガンへの敬愛の意を込めて、このギターを「ベティ・ジーン」と名付けました。


1960年の夏、アルはウィリーン・ストリンガーを交際し始めました。後にアルとジミは、ウィリーンと彼女の幼い娘が住んでいた2606 Yesler Wayに移り住みむことになります。伝えられるところによれば、アルが着脱可能なサテライトスピーカーを備えたステレオ・レコード・プレーヤーを持ち帰ってからというもの、ジミのギターの腕前は飛躍的に上がったと言われています。アルは次のように当時を振り返っています。「ジミはスピーカーを離して設置し、私の所有していたEP盤をターンテーブルにセットし、それに合わせてギターを弾いていました。彼はレコードの曲を耳コピしたり、自分のオリジナルを作ったりしていましたね。私はB.B.キングやルイ・ジョーダン、チャック・ベリーの他、マディ・ウォーターズのような庶民的なミュージシャンのレコードを沢山所有していたので、彼の周りには常にブルースがありました。ジミは特にB.B.キングやルイ・ジョーダン、チャック・ベリーのファンで、アルバート・キングも好きでしたが、ブルース・ギタリストによる音楽は何でも聴いていましたよ。Yeslerの家にはラジオもテレビもあったのですが、ジミはあまりラジオを聴くことはありまなく、床に寝そべったりソファに座って夢中でテレビを観ていましたね。私が仕事から帰宅すると、彼がテレビの前に座って、CMが始まると、番組が再開するまでの間はステレオに合わせギターを弾く姿をよく見かけたものです」。(ジミは生涯に渡りレコードを愛したと言われています。人気が最高潮だったエクスペリエンス時代にも、マディ・ウォーターズ、ライトニン・ホプキンス、ジョン・メイオール、ボブ・ディランを始めとする100枚近いレコードを所有していました。)


アルが所有していたマディ・ウォーターズのEP盤のうち、Chess Recordsからリリースされた“I’m Your Hoochie Coochie Man”と“Rollin’ Stone”は、ジミがキャリアを通じてプレイするほど、絶えることのないインスピレーションを与え続けました。



ジミは、マディのパワフルで1音さえも疎かにしないギターへのアプローチに加え、シカゴ・ブルース独特の歌唱スタイルからも大きな影響を受けました。“Mannish Boy”を聴けば、それもすぐにお分かりいただけるでしょう。



それから6年後、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスがロンドンで初のギグを行うと、イギリスのブルース・ファンたちはすぐに彼がある人物を彷彿とさせることに気が付きました。ジョン・マクラフリンは次のように証言しています。「ジミが歌うと、彼はまるでマディ・ウォーターズのようでしたよ。彼のプレイには、マディのスタイルやサウンドが根付いていましたね。マディを語り、称賛しているかのようでした。彼の歌声にはマディと同じ響きがあり、彼がヒットするようになる頃には、『ジミは素晴らしい』、と誰もが言うようになっていましたね」。エクスペリエンスは、BBC向けにライブ・バージョンの“Hoochie Coochie Man”と“Rollin’ Stone”(出だしの歌詞にちなんで“Catfish Blues”に改名)をレコーディングします。コンサートでは、ジミは“Rollin’ Stone”の非常にゆっくりしたテンポを完全に自分のものにした上で、完璧なチョーキングとマシンガンのように繰り出されるコードのパッセージに彩られた驚愕のソロを披露し、例えて言うならば、それは宇宙にロケットを飛ばすような衝撃でした。



ジミはシアトルでの最後の数か月を、Yesler Wayでアルとストリンガー一家とともに過ごしました。高校を中退した後、食料品店やホテルでの仕事が見つからず、アルは彼に芝刈りや庭師の仕事をさせました。1961年5月、ジミは少年院に収監されることになります。アルによると、ジミは盗難車を乗り回した罪で逮捕され、釈放された後、アメリカ陸軍の別名「Screaming Eagles」で知られる第101空挺師団に入隊しました。


ジミ・ヘンドリックスがギターを覚えるまで Pt. 1 — 幼少期の音楽体験、そして初めてのギター


ジミ・ヘンドリックスがギターを覚えるまで Pt. 3 — 「史上最も野心的なプレーヤー」になるまで


Jimi Hendrix photo: David Redfern, Getty Images Redfern Collection



長年『Guitar Player』のエディターを務めたジャス・オブレヒトは、『Rollin’ and Tumblin’: The Postwar Blues Guitarists, Early Blues: The First Stars of Blues Guitar, Talking Guitar』、『Stone Free: Jimi Hendrix in London』を始めとする、ブルース及びロック・ギタリストについての著書を数多く執筆しています。


*ここで使用されている全ての製品名は各所有者の商標であり、Line 6との関連や協力関係はありません。他社の商標は、Line 6がサウンド・モデルの開発において研究したトーンとサウンドを識別する目的でのみ使用されています。