ヴァーノン・リードによるロックと人種、およびその歴史に関する考察

 

リヴィング・カラーがデビューアルバム『VIVID』でロック界に衝撃を与えてから33年が経ちました。それは同時に、大胆なギター・スタイルを新たに確立したヴァーノン・リードの存在が、広く世間にも知れ渡った瞬間でもありました。彼のプレイ・スタイルは、ルーツである前衛ジャズを巧みに取り入れ、リズムとハーモニーを自由自在に操る冒険心に満ち溢れたものでした。リヴィング・カラーはアーティストとしても商業的にも成功を収め、シングル曲の「Cult of Personality」はヒットチャートを駆け上がりました。


しかし、リードが発信していたメッセージは音楽だけではありません。リヴィング・カラーがブレークする前は、音楽業界が黒人アーティストたちの芸術的な活動に圧力をかけてきた歴史に対抗する、アフリカ系アメリカ人のミュージシャンらによる非営利団体Black Rock Coalitionの創設メンバーのひとりでもありました。公民権法が成立し数十年経ったあとも、ラジオ局やレコード会社の多くは、依然としてそれと分かる特定の文体のラベルをしばしば使用し、アーティストを人種で差別していました。アフリカ系アメリカ人のロック・ミュージシャンは、一般的に“R&Bアーティスト”として分類され、黒人コミュニティ以外での露出を制限されていました。一方ロックは、R&Bと同じくアフリカ系アメリカ人が起源とされているにもかかわらず、白人による白人のためのジャンルとして広く流通していたのです。


1988年に『VIVID』がリリースされた直後、ギター雑誌のカバーストーリーのために、ヴァーノンにインタビューする機会がありました。彼は自身のユニークなスタイルについて分析しながら詳しく語ってくれたほか、ロック業界の差別に満ちた歴史についても掘り下げ、本来ならメジャーの世界で脚光を浴びるべきでありながらメインストリームになり得なかった黎明期の黒人ロック・ギタリストたちによる偉業を強調していました。Line 6が“Black History Month”に合わせて、ヴァーノンにインタビューの申し入れをしたと知り、私は数十年前に議論を交わしたトピックについて、再び話を聞くことができるチャンスに迷わず飛びつきました。


音楽と、それにまつわる人種問題について語るのは簡単なことではありませんね。


人種について語るのは、アメリカの生活のあらゆる側面に関わることなので、簡単なことではありません。一方で、人種問題を抜きに私たちの歴史を語ることはできません。しかしこの話題はときに会話を氷つかせてしまいます。罪悪感や羞恥心を持たずに議論することは不可能ですし、居心地の悪さを感じるため、多くの人はこの話題をなるべく避けたいと思っているのも事実です。ですが、この問題に向き合うことは重要だと考えます。


アフリカ系アメリカ人による音楽について私たちが最もよく理解しなければならないのは、そのすべてが強圧の下で進化していったという点です。フィールドハラーから今に至るまで、すべては強圧と白人の監視下で創られました。そして、すべてが盗用と改作の対象となりました。ジャズが登場するとすぐに盗用され、ホワイト/ブラックに二分化されていきました。そしてこうした分離がその中間に難題を形成していったのです。その音楽自体は紛れもなくアフリカ系アメリカ人が生み出したものでしたが、彼らはそれを作品として世に出す術がありませんでした。この認識的不協和が、アメリカ音楽の歴史全体に及んでいるのです。


1973年のアーニー・アイズレーによる“Summer Breeze”のソロ。


音楽業界による分離によってロックの偉人として世に認められることのなかったギタリストに対し、あなたはよく敬意を表していますよね。例えばアーニー・アイズレーですが。


彼についての話は尽きないので、丸一日でも話していられます。彼は、音楽業界のメインストリームから取り残された偉大なギタリストの一人です。特にアイズレー・ブラザーズが、“Summer Breeze”、“Who’s That Lady”、“Fight the Power”といったロック・ギターがメインのヒットレコードを次々とリリースしていた1970年代は。アーニーは、彼のスタイルだけが称賛されていたわけではなく、商業的にも成功していました。にもかかわらず、彼にはギターやロック関連のメディアから声が掛かることは一切ありませんでした。彼がギター雑誌の表紙を飾ったことは一度もありません。アイズレー・ブラザーズはロックン・ロールのパイオニアであり、1950年代後半から2000年代初頭までに数多くのヒット作を世に出しました。この素晴らしい功績はなぜ認められないのでしょうか?


ジミ・ヘンドリックスが短期間ではありますが、アイズレー・ブラザーズのメンバーだった時期もありましたよね。


アイズレー家の末っ子であるアーニーは当時まだ子供でした。ジミが彼の頭をクシャクシャと撫でたあと、ギターを弾いて見せてくれたという話が残っています。ジミは、この若い、将来の新進気鋭のミュージシャンに大きな影響を与えました。アーニーはヘンドリックスの影響を強く受けていますが、それでもなお彼独自のサウンドを持っています。フレーズも彼の個性が光っています。私が好きな、ヘンドリックスの影響を受けた世代のギタリストは皆、同様に独自のスタイルを持っています。例えばロビン・トロワーは、ヘンドリックスのムード感溢れるダークでオーバードライブがかったブルースの要素に大きな影響を受けています。同じようにヘンドリックスに影響を受けたフランク・マリノやスティーヴィー・レイ・ヴォーンらとは明らかにスタイルが異なります。彼らは皆それぞれ違った形でヘンドリックスの音楽を受け継いでいるのです。アーニーは、R&Bの要素はヘンドリックスから、そしてリズムの弾き方はカーティス・メイフィールドからの影響が大きいと言えます。ヘンドリックスをロック、そしてブルースのギタリストと考える人も多いのですが、実は彼は優れたR&Bミュージシャンでもあったのです。


アイズレー・ブラザーズ feat. ジミ・ヘンドリックス (1964年) 


R&Bのレーベルは、かつてはロックとは別モノとして扱われることも多かったと思います。


ファンカデリックはどうです?彼らはロック・バンドです。『American Eats Its Young』は立派なロック・アルバムでした。ファンクとR&Bの要素はあるものの、“Maggot Brain”はロックの最高傑作です。ジャンルの決定権はいったい誰にあるのでしょうか。これはロックで、これはロックではないと、誰も決めることなどできません。


ファンカデリックのギタリスト、エディ・ヘイゼルについてはどう思いますか?


エディ・ヘイゼルは全く正当な評価を得られていません。ファンカデリックもそうです。ジョージ・クリントンが、R&Bシンガーとして活動していた彼がどのようにしてサンフランシスコに移り住み、ヒッピー・ムーブメントを体験したかを話してくれたことがあります。移り住んですぐにピンク・フロイドの演奏を聴き、黒人のためのピンク・フロイドを作りたいと考えるようになったそうです。戦争や公民権、ブラック・パワー運動など当時世の中で起きていたこと全てをシンセサイザーで表現しました。成金、賭博、教会とストリートのギャップなどについてもです。そしてそれをギターで引き立てていたのがエディ・ヘイゼルでした。特徴的なサウンドは、聴けば彼のものであると一発で分かります。“Maggot Brain”ではゴスペル・シンガーになったかのような泣きのギターを聴かせます。“Super Stupid”に至っては、驚異的にファンキーなハードロックです。しかしファンカデリックはロック・バンドとして認められることは全くありませんでした。それが理由で、彼らはパーラメント/ファンカデリックとして活動するようになり、よりファンク/R&B色を強めるようになったのだと思います。


ファンカデリックとパフォーマンスするエディ・ヘイゼル(1979年)


当時は“Disco sucks”ムーブメントのせいで、ロックとR&Bはそれに敵対するジャンルとみなされているような状況でしたよね。


当時ディスコには非難が集中していて、“Disco sucks”のスローガンは、放送波を独占していたダンス・ミュージックに対する脅威の表れでもありました。どこに行ってもディスコばかりで、過飽和状態でした。とは言え、世の中の反応はとても不平等なものでした。本当ならあって然るべき批評家たちの正当な評価はほとんどなかったのです。KC&ザ・サンシャイン・バンドのメンバー、ギターの名プレーヤーであるジェローム・スミスも正当な評価を受けていませんでした。彼らの“Get Down Tonight”で聴ける、まだワーミー・ペダルがない時代の印象的な超ハイピッチなギターのイントロは見事です。彼らはレス・ポールと同じ、ハーフ・スピードによるテープ・テクニックを使っていたのです。


シックのナイル・ロジャースはいかがですか?


彼はもう超越した存在で、非常に重要なタイミングで登場しましたね。彼がバーナード・エドワーズと作り出す楽曲は非常に影響力がありましたし、クイーンの“Another One Bites the Dust”も、シックの影響がなければこの世に存在していなかったでしょう。彼はヒューマン・リーグ、ダイアナ・ロス、デヴィッド・ボウイ、スティーヴィー・レイ・ヴォーンといったスターのプロデューサーも務めるようになりました。私はいつも、この世で最初にリリースされたヒップホップ・レコードは、ピグミート・マーカムの“Here Comes the Judge”だと言っています。なぜなら、周期的なリズムの中でリリックが語られているバックビートが入っているからです。でも、ヒップホップはシックの“Good Times”が最初だったとも言えるでしょう。シックはとにかく別格でしたから。


テレビ番組で“Good Times”をプレイするシック(1978年)


そうした分離は、80年代始めにMTVが始まったときに再び顕著になりました。当初彼らはブラック・アーティストの曲を全く紹介していませんでした。“これはロックじゃないよね。R&Bだ。”と言わんばかりに。


その通りです。VJにアフリカ系アメリカ人のJ.J.ジャクソンを起用し、ビデオを紹介するのが黒人だったにもかかわらず、番組の内容はほぼ100%白人による作品でした。人種問題にまつわるなんとも理解しがたい矛盾した性質です。MTVは黒人をフロントに採用しながらも、番組のコンセプトはその真逆をいっていました。ロックというジャンルの良さは、その自由度の高さにあると思います。ピンク・フロイドとヴァン・モリソン、イエスとセックス・ピストルズ、どれも同じロックです。なぜウォーやアース・ウィンド・アンド・ファイアー、パーラメント/ファンカデリックたちはロック・アーティストの括りから除外されてしまうのか。それが問題なんです。


1950年代にロックン・ロールが生まれたと言われますが、それにも似たようなことを感じます。そのことがロックをそのルーツから引き離してしまっているのです。例えば、チャック・ベリーとキッスはどちらもロックン・ロールです。ですが、1940年代のルイ・ジョーダンのヒット曲は、キッスよりもはるかにチャック・ベリーのサウンドに近いですよね。ロゼッタ・サープも、1930年代後半頃まで後のチャック・ベリーに近いスタイルでプレイしていました。


ロゼッタ・サープが長年無視されていたのは驚きに値します。彼女は素晴らしいギタリストです。それもかなりのね。彼女はチャック・ベリーに影響を与えた優秀なギタリストとして評価されるべきです。彼女が活躍していた時代においてはスターとして認められていましたが、それでもなお、その後彼女のことが語られることはほとんどありませんでした。彼女の実力がようやく再認識されるようになったのはここ10年ほどのことです。


“Caldonia”をプレイするルイス・ジョーダン(1945年前後)


なぜジミ・ヘンドリックスだけは例外的にこれほどまでに称賛されるようになったと考えますか?どのようにして、彼はロック界の神として崇められるようになったのでしょうか。


もしジミがアメリカだけで活動しイギリスに渡っていなかったら、状況は違っていたのではないかと考えています。チャス・チャンドラーからの渡英のオファーを断ることもできたと思いますが、彼は敢えて未知の世界へ自分を信じて足を踏み入れました。いわゆる、“hero’s journey”(モノミス - 貴種流離譚)の主人公になることを選択したわけです。彼の心の中だけに存在する唯一無二の音楽を生み出すための冒険に出たんですね。そしてヘンドリックスがもうひとつ素晴らしかったのは、当時ベトナム戦争の真っただ中だったアメリカの国民と深い結びつきがあったことです。彼が魅せたバンド・オブ・ジプシーズの「Machine Gun」と、ウッドストック・フェスティバルでの「Star Spangled Banner(星条旗よ永遠なれ)」の見事なエレキギターのパフォーマンスを見ればわかるでしょう。彼のギター、そして大音量での熱のこもったプレイにより、観衆はベトナムの水田が広がる戦地に思いを寄せました。戦争による恐怖や不安、そして失われてしまった多くの若い命が乗り移っていたかのようでした。


Gospel Time TV』 で“Up Above My Head (I Hear Music In the Air)”をプレイするロゼッタ・サープ(1960年代半ば)


世間はヘンドリックスと彼のルーツも分断しているふしがありますよね。例えば、背中や歯でギターを弾いたりするような人目を引く動きは彼が発明したわけではありません。T-ボーン・ウォーカーは、1940年代にチトリン・サーキットでそういった派手なパフォーマンスをしていました。 [“チトリン・サーキット”は、19世紀後期から公民権運動の時代を通して、黒人による音楽やコメディショーといったエンターテイメントを提供するパフォーマンス会場の集まったエリア]


T-ボーン・ウォーカーは、チトリン・サーキットでパフォーマンスをしていたひとりです。あの場所はとても競争が激しいところでした!そして、あそこでプレイすることと地域主義も密接な繋がりがありました。シカゴ、ニューヨーク、フィラデルフィア、アトランタ。いったいどこの出身のアーティストが最も喝采を浴びるのか。ギター・パフォーマンスが優れているのは勿論ですが、ただ上手いだけではなく、背中でギターを弾いたりするアーティストのほうが当然ながら人気がありました。観客たちはそういった派手なパフォーマンスを好んでいたんですね。


私は、ギター専門誌の読者が寄せる手紙の中で、「ジミはブラックでもホワイトでもない。彼は全人類の申し子だ」といったコメントを数多く目にしました。


それは、認知的不協和の最たる例でしょうね。黒人に差別的な感情を持っている人に限って、お気に入りのランニングバックは黒人なんてことはざらです。人々はジミの持つイメージやビジョン、そして彼のコンセプチャルな世界観に魅了され、彼はイーカロスのごとく英雄として崇められました。彼をアフリカ系アメリカ人とは切り離して考える人も少なくありませんし、黒人でさえそのような見方をする人さえいます。「黒人性」の境界線を取り締まるのは白人だけではありません。私たちは誰しも、誰が黒人かそうでないかを無意識に線引きしていると思います。それによって、肌の色やその濃淡について会話するという非常に居心地の悪い領域に入っていきます。ルイ・アームストロングの例もまた然りです。


“Don’t Throw Your Love On Me So Strong” をプレイするT-ボーン・ウォーカー(1962年)


どういうことですか?


ルイ・アームストロングは世界的なスーパースターですが、彼には愛着を持たれる特徴 - 彼の肌の色の濃さと大きな笑顔を見せたときにこぼれる白い歯 - がありました。それが彼のチャームポイントですが、彼自身も“darkie” (“黒んぼ”を意味する差別用語)という言葉を、エンターテインメント性のある概念を持たせて使ったりもしていました。私にとって人生で初めてのボス、ロナルド・シャノン・ジャクソン(偉大なジャズ・ドラマー/バンドリーダー)によると、彼が若いジャズ仲間たちとフェスでプレイした際に、ルイも出演していたそうなんです。彼らは、「ルイはまるで“アンクル・トム”みたいだな」などと話してましたが、実際にアームストロングがやって来て話してみると、必要なものは全て揃っていたかどうか、フェスの運営サイドの態度は適切であったかどうかなど気遣ってくれるナイスガイだったそうです。その時、シャノンはとても自分を恥じたと話してくれました。若輩者の黒人が、どんな人物なのか一方的に決めつけていたその人の本当の姿はその真逆だったからです。白人から人気があるという理由だけで、黒人から侮蔑されるということも起こり得るのです。


33年が経った今、何か変わったとお考えですか?


今の世の中は確かに昔とは変わりました。どの世代の人々も、改めてこの問題について考える必要があります。そして今現在の世代は、トラウマと再認識の両方を同時に体験していると思います。そしてそれが、音楽にも反映されています。対立や矛盾が生まれるでしょう。しかしそれと同時に、新たな問題や新たなレベルでの関わり方も必ず生まれます。“黒人性”についての問題がそのひとつです。そして今私たちは、ある意味、これまでは存在しなかった“白人性”についての問題も抱えています。白人至上の思想が背景にある場合、私たちは誰がそれを動かしているのかということを暗黙のうちに受け入れています。もし全員がそのような黙認をしてしまえば、変化の歩みはとても遅くなってしまうでしょう。そして今が、そのことに挑戦すべき本当のチャンスではないでしょうか。私たちはホワイト、ブラック、ブラウン、イエローなどで分離されたコミュニティを目指すのでしょうか?それとも肌の色を超越できるのでしょうか?アクションなしに変革はあり得ません。


Main photograph: Scott Friedlander

 

ジョー・ゴア は、サンフランシスコ在住のミュージシャン、ライターであり、ハイテクオタクです。多くの著名なアーティストとのレコーディングやライブ経験を持ち、主要なギター雑誌の編集もこなしていました。彼はアナログ・ストンプボックスsound collections for Helix をデザインしています。


*ここで使用されている全ての製品名は各所有者の商標であり、Line 6との関連や協力関係はありません。他社の商標は、Line 6がサウンド・モデルの開発において研究したトーンとサウンドを識別する目的でのみ使用されています。