レス・ポールが生み出した驚異的 “ニュー・サウンド”

 

レス・ポールは何ヶ月にもわたってガレージのスタジオで地道な作業を秘密裏に続け、のちに“ニュー・サウンド“として知られることになる独特のサウンドを具現化した一連の非凡な作品群のうち、最初の2曲を1947年後半に仕上げました。彼の“Lover”、そして“Brazil”の超人的なアレンジは、2台のモディファイされたカッティング・マシーン、シンプルでありながら見事なまでに取り揃えられた機材群、そして大量のブランクのアセテート盤を用いた、今日のマルチトラッキングの原型にもなった「サウンド・オン・サウンド」による多重録音によって生み出されました。


ポールは、ドラムとパーカッション、サブ・ベース、リズム・ギター、リード・ギターを含むすべての楽器を演奏したのに加え、倍速で再生された1オクターブピッチの高いギターをいくつか追加し、「多重演奏」したのです。これら前例のないレコーディング手法は、1948年にリリースされたとき業界の専門家から一般のリスナーまで多くの人々に衝撃を与えました。


ポールが“ニュー・サウンド”で広く知られるようになるまでに、彼は何年もかけてこれら2台のカッティング・マシーンの間でバウンスを何度も繰り返していました。1台目のマシーンでひとつのパートを録音し、次にその録音したものをミキサーで再生すると同時にヘッドホンを使用してサウンドをモニターしながら、2つ目のパートを演奏しました。ミキサーの出力は2台目のディスク・レコーダーにルーティングされているので、2つのトラックがレイヤーされた1枚のディスクが作成されるという訳です。追加のトラックを録音する際は、求めている結果が得られるまでひたすら2台のマシーンの間でバウンスを繰り返しました。言うまでもなく、彼がオーバーダブをすればするほどオリジナルのトラックの原型が失われ、全体的にノイズと歪みが追加されます。この大きな問題に対処するために、彼はいくつかの独創的なデバイスとテクニックを採用したのです。


ポールのミキサーは、友人のワリー・ジョーンズが製作した4チャンネルのユニットでした。さまざまなタイプの機器の入力レベルと出力レベルを最適にマッチさせるような特殊な設計になっており、その結果、動作も静音でした。ミキサーのギター入力は、ブライトさとアタック感を追加する5kHzブーストを備えたカスタムのチューブ・プリアンプにルーティングされていました。しかし、アセテート盤自体の物理的な特性により、高域が失われるのが依然として問題だったのです。


2001年に、私が自著の『Joe Meek’s Bold Techniques』を執筆するためのリサーチを行っていたとき、ポールにインタビューする機会があったのですが、彼は次のように語ってくれました。「レコードの内側に近づくと高域が失われてしまいますが、17″ディスクの外側に78rpmで録音することでそれを回避しました。そうすることで周波数帯域にかなりの余裕ができ、ディスクへの書き込みを可能にしたのです。クオリティが素晴らしいのはそのためで、78rpmでもEQを33 1/3rpmの設定にすることができたのです」。


ポールが遭遇した高域の周波数帯に関するもうひとつの問題は、複数回バウンスを行うと、最初に録音されたトラックのサウンドが、それより後に録音されたトラックよりも徐々に劣化していってしまうことでした。彼はトラックの特定のシーケンスにおいてブライトさが失われる割合を緻密に計算し、レコーディング中に前もって高域をブーストすることでこの問題を回避したのです。彼がプレゼンスと明瞭さを可能な限り引き出すために採用したもうひとつのテクニックは、シグナルを歪んでしまうギリギリ手前のホットな状態に保つことでした。そしてこのリミッター処理はすべて手動で行われました。ワリー・ジョーンズのミキサーには、一般的なVUメーターではなくデシベル・メーターが取り付けられており、ポールはそのメーターを演奏中に確認しながら、必要に応じて音量を細かく調整したのです。


倍速のギター・パートをレコーディングするには、技術的な知識と同じくらい音楽センスも必要でした。ポールは録音中両方の旋盤を半分のスピードで走らせました。つまり、ハーフ・スピードで1オクターブ低く再生されているバッキング・トラックに合わせて演奏する必要があったのです。(この状況でテンポとフレージングを正確にキープすることがどれほど難しいかがピンとこないという方は、是非一度試してみてください。その上で、例えば“Caravan”と“What Is This Thing Called Love”を聴いて、こうした複雑なスピード状態、そこから生まれるハーモニーすべてを概念化し演奏することを想像してみましょう)録音が通常の速度に戻ると、新しいギター・パートは1オクターブ高く、倍の速さで再生されます。そしてこれらを実現するために必要なスピード変更を簡単に行うために、ポールは正確に78rpmと39rpmで動作するよう旋盤を改良し、それら2パターンのスピードを簡単に切り替えられるようにしたのです。


ポールの巧みなトラック・レイヤーとハイスピード伴奏の才腕は驚くべきものでしたが、それだけにとどまらず、カッティング・ヘッドのあとで再生用の針をタップし、彼が録音した音がその少し後に再生され、それをリバースで録音していたとされる“Caravan”で聴くことのできるディレイ効果など、彼には他にもさまざまなテクニックを隠し持っていました。また彼は、ふたつのカッティング・ヘッドを一緒に起動し、それから片方のスピードを遅くした上でほんの少しだけスピードを上げることでフェイザーやフランジャーのような効果を作り出していたと話していましたが、それを行いながら録音するためには、恐らくさらにもうひとつ旋盤が必要になると思われるものの、当時のポールのアセテート盤作品からその効果を確認することできません。



1949年に、友人・アドバイザー、そしてかつての抱え主でもあったビング・クロスビーが、オープンリール方式のテープ・レコーダー Ampex Model 300をポールに贈ると、彼はすぐさまモディファイに取り掛かり、“ニュー・サウンド”は新たな次元に到達しました。既存の消去、録音、再生ヘッドの前に別の再生ヘッドを追加することで(最初に録音された部分がひとつ目のヘッドで再生されるのと同時に、録音ヘッドでダビングしながらヘッドホンに送られます)、彼は1台のマシーンだけで「サウンド・オン・サウンド」による多重録音を可能にしました。しかしながら、テープは、サウンド面ではアセテート盤よりはるかに優れていたにもかかわらず、気が滅入るようなデメリットもありました。


「振り返ると欠点とも言えなかったと思えますが、当時テープの唯一の欠点だったのが、12のパートを録音していたとして、11番目のパートを失敗すると全て最初からやり直す必要があった点です」とポールは語っていました。「こういった経験でプロとしての経験値がアップします。ミュージック・パートナーでもある妻のメリー・フォードと一緒に“How High the Moon”を制作したとき、11のパートがあって、彼女が最後のパートを歌っていて、私も自分の最後のギター・パートを演奏しているちょうどそのときに飛行機が上空を通ったせいで、頭からやり直しを強いられました」。最終的に彼は2台目のModel 300を購入し、以前2台の旋盤で行っていたのと同じように、2台のテープ・レコーダー間でバウンスを行うことでその問題を解決しました。


ただし使用するレコーダーが1台か2台かにかかわらず、最初に録音されたトラックの音質は新たなトラックがそれらの上にレイヤーされるにつれて大幅に低下してしまうため、最も目立たなくてよいパートを最初に録音し、“ベース”(実際にはギターでプレイされている)、メイン・ギター、リード・ボーカルといった楽曲を大きく左右するパートを最後のほうで追加する必要がありました。そのため彼は、主要なパートよりも、例えば4番目のギター・パートを演奏するときに優れた音楽的感覚を働かせる必要があったと言えます。また、数多くのレイヤーが録音された際に最終的なミックスでどうなるかや、最初のほうに録音されたレイヤーの音質が劣化して明瞭でなくなることも想定した上で、多くのパートが音楽的かつ動的に機能するよう、常に複雑なアレンジを事前に十分練る必要がありました。

またオーバーダブされたものがすべてきちんと同期しているように、安定したタイムを維持しなければならないという課題もありました。「私はメトロノームを使用しませんでした。ギターのネックと弦を叩いてリズムを取れば大丈夫だと思っていたので、そうやってリズム・トラックを弾いてレイヤーしています。でも、機械的にタイムをキープしないことでドライブ感や迫力が作品に加わります。ギターを叩いている音だとは気付かないと思いますが、確かにそれも録音されていて、重要な役割を果たしています。このようなトラックを3つ録音したら、それを30トラックの最初のほうで使用します」。


30トラックも?と思われるかもしれませんが、ポールがある特定の曲で録音したと主張するトラック数は年が経つにつれて増えていく傾向にありました。例えば“Lover”にいたっては、複数のインタビューの中で、わずか8トラックと言ってみたり、37トラックもあると語ったりしていました。(念のため申し上げておきますが、彼は少し物事を大袈裟に話す性質で、それはもしかすると彼がウィスコンシン州ウォキショー育ちであることが多少なりとも関係しているかもしれません。噂によると、当時住民の間では日常的な大ぼらが当たり前だったそうなので)


ポールは、世界初の8トラック・オープンリール・テープレコーダー(1952年に受託し、1955年にAmpexが発売)の開発に携わり、レコーディング技術の進歩に大きく貢献した人物としてよく語られますが、“ニュー・サウンド”誕生からメリー・フォードと共同制作した最後のミリオンヒットに至るまで、彼が生み出した並外れた作品の数々は、皮肉にもすべてモノラルのテープ・レコーダー、またはアセテート盤にダイレクトに記録されたものでした。


Photo courtesy of The Les Paul Foundation

 

バリー・クリーブランドは、ロサンジェルス在住のギタリスト、レコーディング・エンジニア、作曲家、ミュージック・ジャーナリスト、著者であり、Yamaha Guitar Groupのマーケティング・コミュニケーション・マネージャーでもあります。


*ここで使用されている全ての製品名は各所有者の商標であり、Line 6との関連や協力関係はありません。他社の商標は、Line 6がサウンド・モデルの開発において研究したトーンとサウンドを識別する目的でのみ使用されています。