キャロル・ハッツィンガー — レコーディング業界に革命をもたらしたシニアディレクター

 

ADAT(Alesis Digital Audio Tape規格)レコーダーは、ちょうど30年前の今頃に小売店で取り扱われるようになりました。安価なS-VHSテープに8トラック録音が可能なADATはレコーディング業界に革命を起こし、その結果数えきれないほどの“プロジェクト”と、プロフェッショナルなレコーディング・スタジオ(一般的に大手レコード会社と契約しているバンドやアーティストのみが使用可能)に比べ、ほんのわずかな費用で商業レベルのレコーディングが可能なホームスタジオが次々とこの世に生まれました。これによりインディーズのレコード・レーベルも急増し、今日のミュージシャンが少なくとも何らかのホームレコーディング機器を持つようになるきっかけにもなりました。すでにADATの時代は過ぎ去りましたが、マルチチャンネルADATオプティカル・インターフェイス、または“ライトパイプ”は、スタンダードな規格として今日も使用されています。


ADATの技術開発チームの中心メンバーは、マーカス・ライル、ミシェル・ドゥワディーク、キース・バール、アラン・ザック、デイヴ・ブラウン、カール・ラフキー、そしてキャロル・ハッツィンガー(当時はキャロル・ナカハラ)でした。ハッツィンガーはアレシス社のその他の製品の開発にも直接携わっており、フォステクス、ステューダー、ダイナコード、スタインバーグ、レプレコーン各社の製品開発にも関わっていました。また彼女はLine 6社創設時のメンバーのひとりでもあり、現在ではヤマハ・ギター・グループでプロジェクト・マネージメントのシニアディレクターを務めています。この無名でありながら業界の最前線で革命的な活躍をし、現在は企業で主要ポストを務めるひとりの女性にスポットライトを当てるのに、“Women’s History Month(女性史月間)”はふさわしい機会です。


マーカス・ライルは彼女について次のように語っています。「初めて彼女とミーティングを共にしたときに、彼女が並外れた才能を持つ優秀なエンジニアだということは一目瞭然でした。ですから、我々のチームに参加して欲しいと必死に説得をしました。彼女はADATの開発になくてはならない存在でした。彼女が初号機の全てのコードを書き、BRC(Big Remote Control)とRMB(Remote Meter Bridge)のほとんどのコードも手掛けたほか、いくつかのカスタムチップのデザインも、大半は彼女によるものです。言うまでもなく、彼女が携わり開発に貢献した製品はその他にも数多く存在します。レコーディング業界に革新をもたらした彼女には感謝してもしきれません」。

“ブラックフェイス”が特徴のADATレコーダー初号機。


まずはご自身のバックグランドを少しお聞かせください。


私はシアトル生まれの日系3世です。私の祖母がアメリカ移民で、両親はアメリカ生まれです。アメリカ人として育ちましたが、当然アジア系アメリカ人の文化の影響も大きく受けてきました。物静かで、クラシックピアノを習い、数学が得意で成績優秀。そういったステレオタイプを地でいくようなところがありました。父が私に寄せる期待は相当高かったため、学校での成績は常にオールAでした。でもそれは、私が頭脳明晰だったからではありません。期待に応えるために死に物狂いで努力した結果であり、それ以外の選択肢はなかったからです。ドラマの『グリー』の中の二人のアジア人の会話で、成績にBを付けられてしまった片方の学生に対し、もう一人が「アジア系F取っちゃったね」と言うシーンがありましたけど、私の学生生活も正にそういう世界でした。


日本語も話すのですか?


残念ながら、言語は先代から受け継がなかったもののひとつです。色々な単語や簡単なフレーズを聞いて育ちましたが、会話できるほどにはなりませんでした。私の世代は戦後の影響もあり、日本語の話し方を学ぶ機会に恵まれなかったのです。私の祖父母と両親は、それぞれスーツケースひとつで社会から締め出され、3年間に渡るアイダホ州ミニドカ収容所での生活を余儀なくされました。そこは有刺鉄線と武装警備員に囲まれた世界でした。私たちの両親の世代はきっと、授かった子供たちには完全にアメリカ人として育って欲しいと考えていたのだと思います。


音楽業界でエンジニアとして仕事をするようになったきっかけは何でしょうか?


私は音楽が大好きで、ピアノを弾くこと、歌うことは感情表現のひとつです。しかし私の家族は、音楽は趣味であり、キャリアにするものではないという考え方でした。数学も大の得意だったため、それをスキルに活かす方向性を模索しました。私の叔父はシアトル一帯で楽器店を経営しており、毎年カリフォルニアで開催されるNAMMショーに足を運んでいました。私は70年代後半、NAMMショーがディズニーランド・ホテルで開催されたときに初めて参加したのですが、その時、自分の音楽に対する情熱を、何か実用的なことと結び付けることはできないかと考えるようになりました。


私は大学で電子コンピューター・サイエンス工学を専攻していましたが、音楽科の試験にも合格し、音楽も専攻しました。私はそれが専攻か副専攻かを明確にはせず、単なる楽しみのために音楽コースをいくつか受講しました。音楽と工学を繋ぎ合わせることを目標に大学に入学したのは事実ですが、それをどう具体的にキャリアにすればよいか、そのときはまだ分かりませんでした。


どのようなジャンルの音楽を演奏されていたんですか?


私はクラシック・ミュージシャンとしての教育を受け、多くの音楽理論を学んでいたため、大学での作曲の授業などは非常に楽しかったです。でも、個人的には、ポップスやR&B、コンテンポラリーな音楽も好んで聴いています。


当時工学と言えば男性の職業であるという既成概念があったと思います。女性、そしてアジア系アメリカ人であることで、何か障害を感じることはありましたか?


私は、自分がアジア系アメリカ人女性であることを特別視したことはありません。それがありのままの自分であり、それは変えられない事実です。確かに工学のクラスでは女性はほとんどおらず、時には自分だけのこともありました。でもクラスの男性と変わらず有能であること証明するために努力しましたし、特にグループで取り組むプロジェクトでは足を引っ張ることのないよう気を配っていました。また数少ない女性だからといって挑戦的な態度を取ることもなく、それを理由にクラスで問題提起するようなこともありませんでした。幼い頃から、民族やその他のことについて軽蔑的発言をする人々は無視するよう父から教えられていました。とは言っても、大学在学中に差別を受けたことはありません。中には差別的な体験をした人がいることも知っていますが、私が共に勉学に励んだ男性は皆素晴らしい人たちでした。その点は、とても幸運でした。



アレシス社のBig Remote Controller(BRC)。


音楽業界でエンジニアとして働き始めた当時の環境はいかがでしたか?


NAMMショーで様々な製品や技術を見聞きした経験から、音楽、数学、物理学、電子工学、プログラミングには関係性があることは分かっていました。実際、私が大学4年生のときにまとめた論文のひとつは、「コンピューター・サイエンスとエンジニアリングのミュージック・シンセサイザーへの応用」というタイトルでした。当時ヤマハやローランドといった大手のエンジニアリング職の採用は日本でしか行っておらず、米国ではかなり小規模な企業でしか需要がありませんでした。実は大学卒業後最初に就職したのは、航空事業を展開するノースロップ社でしたが、音楽関連の企業のいくつかにも履歴書を送っていて、そのうちの1社がオーバーハイムでした。


ということは、それが功を奏したということですね。


当時私は両親と一緒に暮らしていたのですが、ある晩帰宅すると、母がトム・オーバーハイムからメッセージがあると私に言いました。その時私は、「人事担当者じゃなく、トム・オーバーハイム直々なんて信じられない!」と思いました。1986年9月にオーバーハイムで面接を受け、入社することが決まりました。セキュリティ・クリアランス(秘密情報を取り扱う資格)を保持する数千人もの社員が在籍する大企業から、当時社員が100人未満の企業に転職をしたことになります。自分のしたことの重大さより、「本当にやりたかったことができるなんて、なんてクールなの!」と思うほうが先でした。


オーバーハイムでは具体的にどのような仕事をされていたのですか?


私が最初に携わったのは、3.5インチまたは5インチのフロッピー・ディスクをロードすることで、E-mu Emulator II、Sequential Circuits Prophet 2000、Ensoniq Mirage、そしてAkai S900サンプラーのサンプルを再生することができるDPX-1サンプル・プレイヤーのプロジェクトでした。既に5人の男性エンジニアのチームがプロジェクトをスタートさせており、オペレーティング・システム、そして様々なフォーマットに対応しディスクから情報を読み取り、サンプリングされたサウンドを再現する処理を行うオーディオ・エンジンの設計までは終わっていました。まず私に課せられたのは、Emulator IIの全データの精査とその格納場所の解析、そしてそのサウンドを自社の標準的なボイス・エンジンで再生させる技術の開発でした。そういった類のことをどのように実現するのか大学では教わっていませんので、まるで技術の世界における刑事になったような気分でしたが、そういった何かを突き詰める作業は性に合っていますし、益々やる気が出ました。実際にその作業は本当に楽しかったです!他にもコンパクトな小型製品のラインも担当しましたが、オーバーハイムに勤めたのは2、3年で、その後私はファスト・フォワード・デザインに転職をしました。


ファスト・フォワード・デザインはどのような企業ですか?


ファスト・フォワード・デザインは、かつてオーバーハイムで働いていた二人の類まれなるエンジニア、マーカス・ライルとミシェル・ドゥワディークが独立し立ち上げたコンサルティング会社です。当時彼らは、アレシス社のHR-16という高サンプリングレート/16ビット ドラムマシンと、MMT-8というマルチトラックMIDIレコーダーを開発し、どちらもヒット製品となりました。オーバーハイムのエンジニアのひとりが、1988年1月に彼らを紹介してくれて、7月には彼らの下で働くようになりました。最初は従業員が何千人規模の企業から、次は100人以下の企業に、そして従業員はたった6人、その内の5人はエンジニアという企業に転職したことになります。



ADAT開発チームのメンバー(左から右)。
後列:アラン・ザック、クレイグ・デヴィン、ウィリアム・マクギー、キャロル・ハッツィンガー、ラッセル・パルマー、マーカス・ライル
前列:ディー・ジョーダン、カール・ラフキー、デイヴィッド・ダグラス


ご自身が手掛けた中で、最も意義があったと感じる製品はどれでしょうか?


私が最初に任されたプロジェクトは56チャンネルのMIDIライトニング接続コントローラー Leprecon LM-850とアレシス社のDataDiskでしたが、最も苦労した分やり甲斐を感じたのはアレシス社のADATレコーダーと、その製品群すべての開発です。私が初号機である“ブラックフェイス”のADATマシンのすべてのコードを書き、カスタムチップの大部分の設計を手掛けたほか、BRCとRMBのコードも担当しました。これら製品は明らかに真の画期的製品であったと言えますし、このように優秀で革新的なチームの一員として貢献できたのは素晴らしい経験になりました。開発中の製品に関する情報は機密情報として厳格に扱われ、一切の口外は許されませんでした。機密性が高いという点においては航空業界で働いていた時と同じですが、自分が個人的に愛する音楽、そして音楽業界のためですから、ワクワクする感情は比べ物になりませんでした。


当時意のままに使えたツールは、近年のものとはかなり異なるのではないでしょうか。


その通りです。今思えば信じられませんが、例えば特定の動作を実行するために、どのようにシグナルを整列させるかを判別するためのタイミング図を、MacDrawでひたすらコピー&ペーストして作成していました(笑)。ただし、最終的に製造ラインにまわす前に、設計後シミュレーションを実行するための優れたワークステーション・ソフトウェアはいくつか存在しました。ADATのファームウェアは、すべてHP 64000 Logic Development Systemの8031アセンブリ言語で記述されており、当時はそれがある意味スタンダードな方法でした。コンピューターも、ハイレベルなC言語も存在しませんでした。また当時は大容量メモリーもなく、レイテンシーが大きな課題でした。そのため、可能な限りムダのない、高い効率性が求められていたのです。


ADATが業界に革命を起こす存在になるという予感はありましたか?


業界でどのような意味合いを持つ製品になるか、常にビジョンを持って開発にあたっていますので、ADATは新たな旋風を巻き起こすだろうと信じていましたが、それが現実になるまで実感は湧きませんでした。日夜開発に身を捧げている間は客観的に捉えることはなかなかできないため、実際にリリースされてようやく「本当にクールなものが完成した!」と思えました。


ファスト・フォワード・デザインは、やがてLine 6という会社になりましたよね。その経緯をお聞かせください。


言うまでもなく、あらゆる点において同社のブレインであったマーカスとミシェルのふたりが、デジタル・モデリング・ギター・アンプを開発したいと考えるようになり、幸運にもそのとき進行していた他のプロジェクトで競合になりかねないような製品はありませんでした。とはいえ、リサーチは秘密裏に進められ、直接関わりのない社員には開発が進行中であることさえ知らされていませんでした。ですから、アレシス社を始め、他社からの来客があると、それを関係者に注意喚起するためのシークレットコードを使うようになったんです。ギター・アンプの開発に着手した最初のエンジニアがエリック・ヴォン・プロエニーズだったので、「内線6番(Line 6) のエリックに電話です」と受付がインターコムで伝えると、来客だと分かるようにしました。内線は5番までしかなかったので、6番が使われたというわけです。その後ブランド名を決定する際に、色々あった候補の中からLine 6が選ばれた理由は、他にもギターが6弦であることなどもありますが、ごく一般的な名称であるため、我々が特定のタイプの製品のみを限定的に作るという縛りを生まないこともその一つでした。



2022年ヤマハ・ギター・グループ本社にて、ADAT、そして初期のPOD、POD GoHX Stomp XLに囲まれ写真撮影を受けるハッツィンガー。


Line 6は当初単なるブランド名で、ファスト・フォワード・デザインという会社はその後もしばらく存続していたと伺っています。


はい、ファスト・フォワード・デザインという社名は残り、その後も他社のコンサルティング業を継続していたのですが、AxSys 212ギターアンプをリリースする際にブランド名が必要になりました。そのときはまだ我々のほとんどが、XT-20、LX-20、M-20といった様々なADATのバージョンの開発に携わるほか、アレシス社以外の顧客も複数抱えていました。そしてAxSys 212やその他製品の製造をスタートすると、会社は急成長し、エンジニア職以外を担当する人材が必要となったのです。そのため、我々はセールス、マーケティング、経理、購買、製造、カスタマーサービスなどを専任してくれる人の採用を始めました。またアメリカ国内で自社での製造も開始しました。製造所を新設し、それと同時に徐々にコンサルティング業から撤退し、自社製品に専念することを決めました。正式に社名をLine 6に変更したのもその頃です。


ご自身の役割が変わっていったのもその頃でしょうか?


そうです。自分でコードを書くのではなく、プロジェクト・マネージメントを担当するようになりました。そのポジションは自分に向いていると気が付きましたし、将来的には家庭を持ちたいと考えていた私には好都合でした。エンジニアである以上、機器を使用したり、他のチームメンバーと作業をしなければならないため、一定時間社内に拘束されることになります。一方プロジェクト・マネージメントの場合は、柔軟にスケジュールを調整することができます。例えば、朝6時に出社すれば、午後には子供を学校に迎えに行き一緒に帰宅し、その後子供たちに様々な課外活動をさせてあげられますからね。Line 6は会社と私個人の目標を両方達成できるように、一緒になって方法を模索してくれました。そのため私は何年経った今でも快適に働くことができています。


Line 6、そしてヤマハ・ギター・グループで、最も働き甲斐を感じることは何でしょうか?


まず一番に、数多くの非常に聡明でクリエイティブ、そしてアーティスティックな人たちと仕事を共にする機会に恵まれたことに感謝しています。音楽を生み出し自己表現を手助けするために、我々の製品がどのように活用されているかを見るのがモチベーションに繋がります。自分の持つ音楽のバックグラウンドは、ユーザー・インターフェースや製品への実装についての議論に参加していたキャリア初期の段階において、より活かせていたとは思いますが、音楽に対する情熱があるからこそ、今でも繋がりを感じていられるのだと思います。自分のチームメンバーに会うために、中国とマレーシアにある製造工場を訪問した経験もとても刺激になりました。そしてヤマハの一員になり、初めて日本に訪れたのは素晴らしい経験となり、思い出に残る経験を数多くしました。


これからエンジニアを目指そうと考えている、またはエンジニアとしてのキャリアをスタートさせたばかりの若い女性たちに向けて、アドバイスがあればお願いします。


エンジニアに限らずどんな分野での職業でも、女性であるという理由だけで、誰かにキャリアを追求することを邪魔させるようなことがないようにして下さい。自分の長所と短所を理解し、ベストを尽くすために努力することを忘れないで下さい。そうすれば必ず尊重され、他の皆と同じように、あなたもそこにいるべき人間であるということを証明できます。これは性別にかかわらず誰に対しても言えることですが、特に女性には強調し伝えたいことです。自分がそこに属していること、そして求められている仕事をこなせていると証明するためには、より努力が求められることもあるかもしれませんが、諦めないで自分を信じましょう。


ADAT, BRC, and Team ADAT photos courtesy of George Petersen Archives
Carol Hatzinger 2022 photo: Steve Geer

バリー・クリーブランドは、ロサンジェルス在住のギタリスト、レコーディング・エンジニア、作曲家、ミュージック・ジャーナリスト、著者であり、Yamaha Guitar Groupのマーケティング・コミュニケーション・マネージャーでもあります。


*ここで使用されている全ての製品名は各所有者の商標であり、Line 6との関連や協力関係はありません。他社の商標は、Line 6がサウンド・モデルの開発において研究したトーンとサウンドを識別する目的でのみ使用されています。