レコーディング界に革命をもたらしたジョー・ミーク

 

私が自著『Joe Meek’s Bold Techniques』を執筆するために2000年にリサーチを始めた頃、ジョー・ミークは、1960年代にホーム・スタジオでコンプレッションやテープエコー、リバーブ、ディストーションを過激なまでに使用して非常に画期的なDIYレコードを作成したイギリス人の奇才、そしてそうした作品の中のひとつであり、1962年にヒットチャートで1位に輝いた“Telstar”で語られていました。


膨大な資料や録音記録を入手し、ミークと仕事をしたことがある人物やミークを詳しくしる人々から話を聞いたり、彼がキャリアを通して残した1,000以上にも及ぶレコーディング作品を耳に通したりするのに1年ほどかかり、ようやく断片的だった記録がひとまとまりとなって、より鮮明に彼の像が見えてくるようになりました。


彼はイギリスのレコーディング史の年表に独特な存在として記されているだけではなく、その技法は当時のレコーディングとその技術へのアプローチと比べ、数年、場合によっては数十年も先を進んでいたとも言える巨星であり、1950年代半ばには、彼の作品はイギリスのレコーディング界のコミュニティ全体、ひいては世界中のレコーディングの常識を覆してしまいました。


ミークが音楽業界にもたらした革命を一言で表すのはそう簡単ではありません。そして彼が起こした過激とも言える革命は、今日においては当たり前のこととして完全に浸透してしまっているため、特別なことだとは誰も思いませんし、なぜ当時周囲の多くから激しい反発を受けるに至ったのかを理解するのは困難です。そうした彼の残した功績のいくつかを詳しく解説する前に、まずは彼の経歴について少しご紹介します。



ロバート・ジョージ“ジョー”ミークはませた少年でした。10歳になるまでに、同じ村に住む子供たちによる子供たちのための演劇作品を書いてプロデュースまで行い、鉱石ラジオやマイク、チューブ・アンプなどを自作しました。14歳になると、場所を問わずどこでもDJとしてダンスができるように自分の機材を拡張し、24歳でレコードのカッティング・マシンを組み立て、自作のテープ・マシンに録音したサウンド・エフェクトの数々を収録した自身初となるレコードのカッティングに使用しました。プロのオーディオ・エンジニアになる以前から、ラジオやテレビ、その他の電化製品のリペアを何度となくこなしていたのです。


ジョー・ミーク:IBCのディスクカッティング・ルームにて(1956年頃)

ミークは音楽業界の異端児として語られることも多いのですが、実はロンドンでは最大かつ最先端のスタジオであるIBCの従業員として、プロのレコーディング・キャリアをスタートさせました。当時のイギリスのエンジニアたちは、基本的には白衣に身を包み、可能な限りリアルな音を録音するために確立された手順を忠実に実行する科学者のような存在でした。一方、クリエイティブの面での決定権を持っていたのは、レコーディング技術をほとんど理解していないスーツに身を包むプロデューサーたちでした。そのため、1エンジニアがクリエイティブ面の提案をしてくるようなことはあり得ない世界でした。そういった慣習をミークはほぼ独力で変えていき、最終的には打破するに至ったのです。


1955年から1957年にかけて、ミークは数えきれないほどのポップ及びジャズのメジャーなアーティストたちのヒット作を手掛けましたが、それら作品には他のエンジニアのものとは明らかに異なる、ミークならではのタッチと分かるサウンドがふんだんに盛り込まれていました。彼は自分の頭の中にあるサウンドを実現するために、テープ・マシンを微調整し、テープ上で最大のレベルが得られるようにリミッターを限界まで上げ、押し出されて息づく効果を出すためにコンプレッサーを使用し、マイクを一般的に規定される位置ではなく、音源に密接、またときには内側にセッティングしたり、あえて適切ではない種類のマイクを使用し実験的なことを行ったり、場合によってはプリアンプの入力を意図的に過負荷状態にすることさえありました。また彼はアコースティック・エコー・チェンバーとテープ・ディレイが大のお気に入りで、1957年にはよりアンビエントなエフェクトを得るために、壊れたヒーターを改良し、なんとも不思議な“ブラック・ボックス”スプリング・リバーブ・ユニットを組み立てました(これはAccutronicsがスプリング・リバーブ・ユニットを開発する何年も前のことでした)。そして彼は、エレキベースを最初にダイレクト接続(DI)したエンジニアのひとりでもあったのです。


こういった革新的な試みが、今日では業界の標準的なテクニックとして広まることになり、大きなパラダイムシフトを生むことになりました。1950年代のブリティッシュ・ポップのレコーディングでは、ルーム・サウンドが広く取り入れられています。通常マイクは音源から十分に離れた場所に設置され、それぞれのミュージシャンもお互いに十分な距離を取るようにしていましたが、ミークは音源のすぐそばにマイクをセットアップすることでルーム・サウンドを極力排除し、コンプレッサーとリミッターを使用してよりタイトでパンチの効いたサウンドにしていました。失われたアンビエンスの代わりに、そしてときにはあえて不自然なアンビエント・エフェクトを作り出すために、彼はミックス全体をエコー・チェンバーに送るといったこともしていたのです。3ヘッドのオープンリール式レコーダーを使用してテープ・ディレイを加えることもあり、イギリスで初めて、エコー・チェンバーにルーティングする前段のシグナルにディレイをかける、いわゆるプリディレイを発明したのはミークだった可能性は大いにあります。


多くのプロデューサーたちは、ミークの作品が次々にヒットとなり、他のプロデューサーが彼以外と組むことを拒否するようになったため、自分たちの権威に対する挑戦と受け止めて憤慨しました。一方売れっ子となったミークは、数々のアーティストやレコード会社から指名を受けるエンジニアになりました。


トラッドジャズのトランペット奏者、ハンフリー・リッテルトンの“Bad Penny Blues”は、ミークの取ったアプローチにより、良い意味でレコーディングの在り方を変えた最たる例のひとつでしょう。これはドラムのブラシ奏法とそれに合わせた、ブギウギ・ピアノのベースラインからなる1曲です。ミークは、ジャズのレコーディングにおいては通常ではあり得ないほどのコンプをすべての楽器にかけながらも、ブラッシュ音がミックスで際立つように調整し、ピアノのベースラインは意図的に歪ませたのです。



このセッションをプロデュースした故デニス・プレストンは、「あれはジョーのアイデアでした。彼の中ではドラム・サウンドができ上っていて、あんな先進的なドラム・サウンド、しかもエコーをかけるなんて、当時の他のエンジニアは誰も思いつきもしなかったことですよ。またジョーは私に、リズム・セクションは聞くのではなく感じ取るものであるべきだ、と言ってましたね。のちにディストーションと呼ばれる技法を最初に採用したのは彼でした。今では誰でもディストーションというものを知っていますし、最初から機材にすらなっているものですよね!そのお陰で、あの曲はありきたりなジャズEPの新譜の1枚として終わらず、ヒット作品となりました。完全に彼のサウンドコンセプトの賜物です」と語っています。“Bad Penny Blues”はポップ・チャートでトップ20入りを果たしました。


IBCに勤めている間にミークは2台のレコーダーを用い、多重録音によるレコーディングを実験的に試しました。「ジョーとプロデューサーのマイケル・バークレーは、トラックをひとつひとつバラバラに作成する“コンポジット”と名付けた技法をよく行っていたのですが、実際のところ彼らがやっていたのは、合成手法を用いたマルチトラック録音でした。アメリカについては分かりませんが、私の知る限りロンドンでは、恐らくヨーロッパ全土でも、あの時代にそんな技法を行っていた人は彼ら以外にはいないと思います」とミークと作業したことのあるエンジニア兼プロデューサーの故エイドリアン・ケリッジは当時を振り返っています。


ジョー・ミーク:ランズダウンのコントロール・ルームにて(1959年)

順風満帆のように思えますが、ミークはIBCにおける制約の多さや敵対ムードに次第に限界を感じるようになり、1957年9月に同スタジオを去りました。数か月後、ミークはプレストンがランズダウン・スタジオを立ち上げるのを手助けし、やがてケリッジも同スタジオのメンバーとなりました。ミークは、当時としては贅沢な仕様の各チャンネルEQが備わった12チャンネル・モノ・チューブ・ミキサーを設計し、EMI/Hayesにカスタムで製作させ、また彼はEMI TR50及びTR51レコーダーを採用し、スタジオ内の技術的な側面全体を管理するようなったのです。IBCのエンジニアたちは、サウンドがあまりに透明度が高かったため、ランズダウンを“The House of Shattering Glass(衝撃のガラスの館)”と呼び、そして1959年にはロンドン初となるステレオ・スタジオとなりました。ミークは1959年11月まで同スタジオで活躍しました。


ミークはランズダウンにいる間に、あの伝説的なブラック・ボックスをさらに2台組み立てました。1台はPultecスタイルのイコライザーで、オーナーのひとりは“恐らく史上最高にウォームでスムーズ、かつ透明感の高いイコライザー”だと絶賛しました。もう1台はLangevinスタイルのコンプレッサー/リミッターでした。ミークはランズダウンを去る際に、その両ユニットは残し、最初に組み立てたスプリング・リバーブのブラック・ボックスだけ持ち帰ったそうです。「あのブラック・ボックスは本当に良く出来ていて、ジョーはそのからくりについては秘密にしておきたかったようです。私の知る限りでは、あれがこの世で初めてのスプリング・リバーブではないでしょうか。あのユニットは非常に跳ね返りがよく、残響も強いサウンドを得られたため、彼の手掛けたレコーディングの多くでエフェクトとして使用されました」とケリッジは語っています。


加えてミークは、1960年代に登場したとされているテープを用いたフランジャーもその頃に開発をしていたようです。ケリッジによると、ミークはすでに1957年頃に2台のテープ・マシンを使用してその効果を作り出しており、こちらの出来も非常に良く、多用していたそうです。


ランズダウンで働いている間に、ミークはアランデル・ガーデンズにある小さなアパートで、彼の作品の中でも最も注目すべきフルアルバム、『I Hear a New World(Outer Space Music Fantasy)』のステレオ・レコーディングも行いました。当時そこにいた者は誰もステレオ機材を見た記憶がなく、彼がどのようにステレオでのレコーディングを成し遂げたかは謎のままです。ほとんど気に留められることのなかったこのレコーディングを聴くと、商業ステレオ・レコーディングの黎明期においてこのオーディオ界の革命児が位相関係やイメージング、ドライ/ウェットなサウンドのバランスといった課題とどのように向き合っていたのかを知ることができ、興味深い洞察を得ることができます。さらには、ミークによるシグナル・プロセッシングやテープ・マニピュレーション、テープ・ループは、それまで誰も成しえなかったことです。(注:現在市場で入手できる『I Hear a New World』のCDには、そうした歴史的な意義に大幅な変更が加えられているバージョンが含まれています。)


1950年代に突出した功績を数多く残したにもかかわらず、彼の代表先として広く知られているのは1960年代に制作されたレコードです。このレコードは、ロンドンの304 Holloway Roadにある、1階がレザーショップの建物の3階にあった伝説的なホーム・スタジオでレコーディングされました。広さ11×12のコントロール・ルームからは、ホールの下にある約18×14のレコーディングエリアを直接見ることはできず、ミークはミュージシャンたちと話をするために2つの部屋を行ったり来たりしなければなりませんでした。また、304 Holloway Roadで行われたほぼすべてのレコーディングでは、はっきりとエコー・チェンバーのサウンドを聴くことができ、彼自身もエコー・チェンバーを使用していると言っていたそうですが、どうやらそのサウンドを作り出すためにバスルームを使用したと思われます。


ジョー・ミーク:304 Holloway Roadのスタジオにて(1966年)

ミークが“Telstar”を始めとする古典的な304 Hollowayでのレコーディングに使用した機材については、プロ仕様のものからDIYしたものまで多岐にわたり、世の中のほとんどのスタジオと同様に継続的にアップグレードがなされていました。例えばミークがレコーディングを始めた当初、彼が主に使用していたレコーダーはモディファイされたLyrec TR16-Sと数台のポータブルなEMI TRシリーズでしたが、その数年後にはAmpex Model 300とEMI BTR2、そして複数台の補助的なマシンが追加されています。そしてアウトボードやマイクなどの機材もほぼ同様でした。しかしながら、あるセッションで彼がどんな機材を使用していたか正確に特定できたとしても、どのようにしていわゆる“ジョー・ミーク・サウンド”が生み出されたのかを探し当てることには、必ずしもなりません。なぜなら彼は所有するほぼすべての機材をモディファイしていたからです。


ミークの機材が進化するにつれ、レコーディング・アプローチも進化していき、様々なテクニックでマルチトラックを組み合わせる手法が常に用いられるようになりました。1962年11月に、ミーク自身がスタジオを歩き回りながら当時使用していた機材やその使い方について解説した記録が残っていますので、その一部を抜粋しご紹介します。


「メインで使用しているのはLyrec 2トラックです。1トラックにボイスをレコーディングし、バッキングは別のトラックにレコーディングします。他にはEMI TR51レコーダーもダビング用に使用しています。マイクはアーティストが自前で用意したNeumann U 47で、他のミュージシャンからは仕切られた部屋の隅で歌ってもらいます。彼の声だけ独立したトラックでLyrecに送られます。ベースはダイレクトに送り、ギターはアンプ前にマイキングして、ドラムには周りに2~3本のマイクを設置しています。それから再度ボーカルを重ね録りします。レコーディングしたものを確認すると、そこまでのもので十分な場合もあるのですが、そうであったとしても、通常はボーカルにはヘッドホンをつけてもらい録音したトラックを聴きながら改めて歌ってもらったものをTR51に録音するようにしています。こんな感じでボーカルとリズムトラックができ上がります」。


ミークはリズムトラックと同時にガイドボーカルをカットしているので、Lyrecの2つ目のトラックにはボーカルは録音されていない点にご注目ください。代わりに彼は、Lyrecのトラック1に録音されたリズムトラックをダイレクトにEMI TR51に送ってリアルタイムでミックスし、トラックバウンスの回数を減らしています。ピーター・ミラーとテッド・フレッチャーは、異なる時期にミークがレコーディングを行っていますが、この基本テクニックの、ミークがプロ仕様のレコーダーを追加購入したあとに考案した、改良版について語っています。


ミークは数多くの作品を手掛けましたが、最も高く評価された3作品はジョン・レイトンの“Johnny, Remember Me”(この1961年の革命的な「デス・ディスク」は間違いなく彼の最高傑作です)、トルネイドースの不朽のヒット曲“Telstar”、そして1964年にリリースされたハニーカムズの“Have I the Right?” で、ミークはシュロキー・ポップからサイケデリック・ロックまで、バラエティ豊かなレコードを制作しています。弾みあるギターのインスト、クールなロックやロカビリー、サイファイ、オーケストラ、そしてカントリーやウェスタンに至るまで、手掛けたジャンルはすべて語り切れないほどです。またミークは、ギタリストのリッチー・ブラックモアやジミー・ペイジといった著名なミュージシャンらとも頻繁にセッションを共にしました。ジミーは、ミークが彼の楽曲制作に多大な影響を与えたと評しています。


1967年2月3日、ミークは大家の女性をショットガンで射殺し自らの命も絶ってしまいます。悲劇的な最期を迎えた、当時の彼を取り巻く状況については依然として不明です。しかしホーム・レコーディング愛好家から著名なエンジニアやプロデューサーに至るまで、意識しているかどうかは別として、何かしらミークの成し遂げた偉業の恩恵を受けていることだけは確かな事実です。


Main Photo: John Pratt, Getty Images.

IBC Photo courtesy Denis Blackham.

Lansdowne Photo courtesy Chris Williams, supplied by John Repsch.

304 Holloway Road Photo: David Peters.

バリー・クリーブランドは、ロサンジェルス在住のギタリスト、レコーディング・エンジニア、作曲家、ミュージック・ジャーナリスト、著者であり、Yamaha Guitar Groupのマーケティング・コミュニケーション・マネージャーでもあります。


*ここで使用されている全ての製品名は各所有者の商標であり、Line 6との関連や協力関係はありません。他社の商標は、Line 6がサウンド・モデルの開発において研究したトーンとサウンドを識別する目的でのみ使用されています。